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青磁社通信第十号VOL.102004 年 7 月 発行

巻頭作品

前 登志夫

風かよふ山の若葉に降る雨を眺めてをりぬ病ひ癒えよと

拾ひたるいのちと人のいふなればころびし崖の底を覗くも

谷間には髑髏ひとつしろく光りうすむらさきの靄たなびけり

一匹の百足を捕へ若葉夜の娘とわれは戸惑ひてをり

郭公の啼きたる夜にこの夏のよだか来啼けりたれをくやむや

守宮ゐる夜の窓の下かぎりなくしづかに繭は編まれをりたり

鹿多くなりたる山か夏草のしげれる道に立ちつくすのみ

エッセイ
哲久の赤彦観 ─「鍛錬道」の見直し

篠 弘

 すでに坪野哲久は、一九八八(昭63)年に亡くなるが、哲久が昭和を代表する歌人であり、合著歌集『新風十人』('40・5)の一人であったことは、よく知られている。しばしば前川佐美雄と併称されてきた。また、プロレタリア歌人として苦闘したことも、かなり知られるが、哲久が島木赤彦の最晩年の弟子であった。そのことは忘れられているのではなかろうか。
 一九二五(大14)年の四月、哲久は東洋大学に入るとともに、学友の高井直文に連れられて、当時東京の麹町にあったアララギ発行所を訪ね、赤彦に会って歌評を受けている。それから毎月、赤彦の面会日を待つことになる。いうまでもなく赤彦は、翌二六年の三月に亡くなるわけで、それは満一年にみたないが、この出会いを終生哲久が大事にしていた、そのことを考えてみたい。
 ちなみに哲久は「わが日々の断章Ⅳ」(「短歌」'70・4)のなかで、面会日の赤彦の思い出を執筆している。その一つとして、赤彦が自信をもって自作を示したときの印象を記す。それは二五年の旅行詠の一首。
   谷かげに苔むせりける仆れ木を息づき踰ゆる我老いにけり
 木曽を歩いた「峡谷の湯」の一連のもので、山道の苔むした倒れ木が、己が身の暗喩となっている。これを読んだ哲久は「大へん心細い気持ちがした。と同時に、作者が何か強いて老を誇張しているようにも思われ、いそいで念頭から忘れ去ろうとしたのであった。思えば、それはぼくが未熟な若輩であったからであって、赤彦の死病はすでに、このころからはらんでいたのである」とし、そのため「あとあとぼくは、赤彦を思うたびにこの一首が心中を去来し、涙を流すことになる」と、その折に理解できなかったことを悔やしんでいた。
 さらに哲久は、二六年四月の「恙ありて」を引く。
   もろもろの人ら集りてうち臥す我の体を撫で給ひけり
   隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
   魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り
 こうした一一首を挙げながら、これらは「傑作」であって、「赤彦の歌は、ぼくが年をとると共に少しずつ解きほぐされていったように思われる。そして今は、大正期最大の歌人の一人であるという結論に達した」ことを述べる。「赤彦は、表現のぎりぎりの場において、大きなたたかいを彼流に成し遂げたのだと思う。われとわが身を削る如く苦吟し、自分の歌を責めぬいたのだ」と認めるに至る。評価の核心は「そうした表現のたたかいを透過して後にうち拓かれた、最晩年の自然の息づかいではなかったか」というものであった。赤彦の他界は四九歳、哲久がこれを執筆したのは六三歳である。
 こうした哲久の赤彦への理解は、たんに旧師を追慕するものではなかった。これより先に、戦後一〇年に発表した「現代短歌鑑賞-島木赤彦秀歌」(「短歌」'55・4)が、そのことを如実に示す。たとえば、
   わが庭の柿の葉硬くなりにけり土用の風の吹く音きけば
   雪降れば山よりくだる小鳥おほし障子のそとに日ねもす聞こゆ
 こうした自然詠から、一首目について「単純化はさすがに至り得ている」と言い、現在の歌壇は「もっとしゃれた表現でなければ満足できないようになっている。そしてますます歌柄が小さく浅くなり、本質的には通俗の道を辿っている」ことを突く。また、二首目の「ひといきに澄み入ること」の難しさを言い、赤彦に比して「現代の歌はきたいにはね上っている。荒蕪している」ことを警告する。「われわれは両足をもっと大地に密着させ、現実諸相の中核に迫りつつ、生の存在を確認しなければならない」との自己批判を試みていた。
 ここで、先の「わが日々の断章Ⅳ」に戻ろう。
 「およそ芸術にとって、鍛錬は不可欠であるとぼくは信じて疑わない。その前提として、創造者そのものにも、鍛錬が加えられなければならない。あくまで創造者として、本物の人間でなければならない。このことは人間の自由や表現の自由と、相反するものではないのだ。人間は人間の自由さの中において、自己鍛錬を加えなければならない。表現の自由もまた、その自由さの中において、表現の鍛錬を実行する……。」
 これは、哲久なりに「赤彦の鍛錬道」を受容してきた自負をあらわし、哲久を理解する批評軸ともなろうか。  ますます恣意的な作風が増える現況において、哲久の「鍛錬道」を見直したいとする箴言を挙げておきたい。

密やかなもの
藤田良二郎句集『静夜 』

書評 中村 雅樹

静夜 

 『静夜』は、昨今の多くの句集のなかにあって、ひときわつつましい静謐な一集。何よりも言葉の遣い方に欲がない。低唱である。そのために句にしみじみとした味わいがある。自然を前にして口をついたつぶやきが、そのまま句になった趣と言おうか。たとえば、

  また一人来て掃苔の煙立つ
  ふるさとの山みな低し端居して
  日暮れには少し間のある苗木売

 ある人が良二郎さんの句について「古い」という批評をした。「古い」にもいろいろあるであろうが、俳句自体に古いも新しいもあるものか。むしろわたしは良二郎さんの句に、わたしたちの胸の奥に息づいている密やかなものを感受するのである。それははるか昔から続いており、いまなおわたしたちがそれを生きているような、細やかで素朴な心の動きであろう。

  緑陰に離れてききし法話かな

 「吉崎御坊蓮如忌」との前書きがついているが、それに限定される必要はない。このような景はかつて読んだ古典の一節にあったような気もするし、高僧の絵伝に描かれていた景のような気もする。要するに普遍的な時空へとわたしたちを誘うのだ。現在の景でありつつ、時間と空間の奥行きを感じさせるのである。これもおそらくこの句に籠められている密やかなるもののなせるわざであろう。良二郎さんの句の特長である。
 何年前であろうか、良二郎さんの在所で句会をともにしたことがある。そのときわたしは、会場を提供してくれたお宅の小さい子どもを抱いている良二郎さんの姿に接した。数日前に診察された子どもさんであるという。お医者さんであるから、それはありふれた振る舞いであり、何も特別なことではないはずだ。しかしわたしは良二郎さんの一面を見た思いがして、胸をつかれたのであった。

  しぐるると軒借りながら下校の子
  地図持ちて草餅とどけくれし子よ
  村々に秋の祭の子供かな

 このような句にふれて思い出すのは、幼子を抱いているあの姿である。それはこの句集から発する密やかな響きと、おのずからひとつになる。すなわち、わたしのうちに良二郎さんの世界が、はっきりとたち現れてくるのである。

天命と非命のあはひ
酒井藤吉歌集『八潮路 』

書評 松川 洋子

八潮路 

  古里は伊吹の彼方ひうひうと伊吹おろしは歌ひゐるべし
  年嵩ねゆくは容易く難しとも世紀たけゆく霊肉の時差
 『八潮路』を何度か読んで、つくづく昭和一桁の男性の歌集と思った。酒井氏のなかに霊肉の時差などは無いのではないか、霊肉は時間を超えてがっちりと組み合わされ融合し、ゆるぎない「石」としてある。
 「あとがき」にはその人の本質がよく顕れるものだが、『八潮路』のあとがきはかなりユニークである。あとがきは、と言うより歌をはじめた時の心がまえとその後の営為がユニークなのだ。私は地元の新聞の選を十七年ほどやっているが、歌をはじめた動機はほぼ同じ何年かして結社に入るというコースの人が90%を占めているようだ。でも著者のように「一念発起」戦に出るように総合誌、五大全国紙を読み、講座に入り準備万端整えて、というのは聞かない。
 著者は大変真面目な人である。この生真面目さは、昭和一桁の殊にはしりの年代の人間の宿命であり又、特権であるらしい。この世代の人間は満州事変、日支事変、そして第二次世界大戦と成長期のすべての時間を戦争の渦の中に放り込まれた世代だ。
  海ゆかば山ゆかばに続ぎ「空ゆかば雲染むかばね」と歌はさ
  飛び散れる血潮に掌合はせ罅割れし飛竜の銃座の風防換へつ
  巻脚半をゲートルと言ひ殴たれたが良い先生だつたので我慢した
  兄果てし南の海のその南トンガのかぼちや色濃く並ぶ
  息子らは征き老家父長は血肉刺して藷を植ゑんと刺草を刈る
 著者より二歳上の私には、我が身、我が心の傷の再現とも思われる作品群である。海も山も空もことごとく血の色をしていたあの日々、人間の大量の血があんなに濃く匂うものだとは、死を決めた、いや決められた若者の眼があんなに蒼くすさまじく澄むものだとは、これは見た者だけが知る事である。
 私はすこし凶々しい時代の歌に執しすぎたかも知れない。集中、職場の歌、旅の歌、身辺の歌にも独自の歌は多い。
  わが勤務龍のあぎとも虎の尾も一再ならず知らで触れ来し
  黒潮も木曽の清水も椰子の実もここに憩へり珠玉の英虞湾
  春夏秋冬年なみにゆくさりながら死は序を待たず後ろに迫る
  双乳房揺れて漉かるる美濃の紙恩師に一筆書かむと思ふ
 どの作も歳月を重ねて来たひとの万物へ寄せる思いが温とい。虎の尾も、椰子の実も、乳房も和紙も、死さえ等価なのだ。
  八潮路を越えゆく椰子の実天命と非命のあはひ沈みゆくなり
 題名となった一首である。非命とは、天寿を全うしないことの意だが、われわれ世代への天命とは、はじめから非命を全うせよという事であった。

見ることの意味
刀根美奈子歌集『エスフォルソ 』

書評 倉益 敬

エスフォルソ 

 歌集名・エスフォルソとは『いっしょうけんめい』という意味のポルトガル語だそうだ。作者は日本語教室の教師。そしてこのタイトルの一連が本歌集のプロローグ。外国籍の児童達と過ごす日々の記録が綴られている。記録とは常識からすれば、記念や証拠の意味で事実の代理物でしかない。
 しかし次の二首に見られるように
  「み」のかたち美しいとブラジルの少女言い何回も書く眼を光らせて
  教室へ引きずり戻されてゆくことを愉しんでもいる少女の細き眼
 これらの作品が再現ではなく発見の記録であり、それが単に対象の発見に留まらず、同時に自己発見の記録になっている点を見落とすわけにはいかない。その意味において「見る」という行為は対象を主体化することであり、作品のリアリティを保証するものは、この主体化の過程をおいてほかにはない。歌集を読み進めてゆくと次のような作品に出会う
  白髪の老姉妹の店のヒマワリパン噛み締めるためにあるようなパン
  時計台の後ろに隠しきれぬほどトリック仕組まれさび付く秒針
 肉眼から隠された現実を「見る」という意識がこのようなアイロニーを帯びた歌を生み出してゆくのかも知れない。
  夢の話現実に向かう筋書きに逆らうよ自分の中の何かが
 肉眼と現実の対応を信じ過ぎたが故に、時としてバーチャルに流されながら、ものごとの実相を見失ってしまったのが現代社会である。さらにある種ねじれた感覚から
  木蓮に切り抜かれいるこの青空は風吹くたびにかたちを変える
 この一首では、見ることを「見る」視線の二重性のようなものが示され
  ここからは右へ折れバス車窓から大根ぐいと抜かるるを見る
 ここでは、対象への日常的な関係(経験的な意識)が物自体の剥き出しの姿の前に弾き飛ばされてしまっている。
 このような作歌姿勢を突き詰めて言えば、目の前に起こる出来事とそれを見つめる自身の背後にいる、もう一人の自分との「かかわり」あいである。その「かかわり」とは他の何ものかの代償行為でもなければ、それ自体、他の何ものにもおきかえれない貴重な体験である。
 『いっしょうけんめい』とはそういう固有な「かかわり」をあからさまに生きようとする態度なのであろう。

心やさしい人間嫌い
高橋彌子歌集『猫のまくら 』

書評 小畑 庸子

猫のまくら 

 猫という動物をあまり好きではないのだが、かつて祖父母の家に人語を解する三毛猫がいて、何年か同居した経験があるので、猫嫌いというわけではない。したがって、著者の猫好きを何とか理解できる範囲には居るようである。冒頭の十首「海辺の家」は猫の作品。
  去勢後の麻酔残れる後肢ふらつかせつつ水のみに行く
 猫も切ないが、著者の方がより切ないにちがいない。
  人を排する囲ひが浜に出来てより弘法麦はその中に生ふ
  疾走も跳躍もせぬ草の実がある日爆りて遠くへ飛びぬ
 猫ばかりでなく、動植物等にも深い思いを寄せる著者である。
 人間を排除したところに弘法麦は育ち、人間のように無闇に疾走や跳躍をしない草の実は、自ら爆ぜて種の保存を達する。彼らの生き方を称えてうたう著者は、心やさしい人間嫌いなのである。
  星ひとつ昭和四十年岩波文庫 猫の枕にぴつたりの厚さ
 電子辞書がまだ普及していなかった頃、書斎で眠くなると、広辞苑を枕にして眠るという友人がいた。眠っている間に賢くなるといいねとからかったものである。この文庫本は、睡眠中の猫の脳に何を浸透させるのだろう。猫の眠っている状態を想像して、つい微笑が湧く。
 圧巻は「草原」の一連である。スイギュウがライオンに捕えられ、噛み殺され喰われるシーンと、その後の草原を直視する。
  沛然と雨降り注げライオンの犬歯に喉を噛み切られる際
  風が吹く 血を乾かして草を撫で群れて水飲むはらからの方へ
  ひみつ持つ二頭はどこに隠れるのだらう 目路の限りの陰なき草原
 「遺言」では、著者自身の死と、その時の猫たちの様子を想定してうたっている。猫と徹底的につき合って、人間以上に彼らを愛する著者が、作品によって発する人間臭は、魅力的である。
  かぜくさと猫となづなが好きだから風知院猫撫菜大姉
  〈あの人はやさしかつた〉と言ふだらう友はさておき猫たちはみな
  理由言はず二日三日と家出する猫になります生れ変つて
 この後、歌集の最後の作品まで、著者は猫以外のものを殆どうたっていない。その上、この歌集には後記がない。後記は一集の説明でしかないという著者の意志表示であろうか。
 読後、この歌集はなぜ筆名で発表されなければならなかったのか、という疑問が残った。少なくとも、本名高橋彌子さんでよかったのではないだろうか。事実であれ虚構であれ、作歌という言葉がある限り、歌は作るものなのである。

時間の手触り
澤辺元一歌集『燎火 』

書評 谷岡 亜紀

燎火 

 『燎火』は大正十五年生まれの著者の第二歌集である。
  時を溜めごとりと分を刻みゆく大時計ありき無限がありき
  齢重ねヒトはさまざまな歩き方する生物となる病院待合室
  病院の壁の向こうをゆっくりと夏過ぎてゆき街の音する
  終戦前七日の海を漂いて死にたる友よいまもただよう
  四年後にまた点検にまいります-あなたの四年 私の四年
 まず目に止るのは、時の流れを歌った作品である。作者は、季節を見据え、過去を見据え、生活の上に流れる時を見据えつつ、その先に〈時間〉というもの自体の本質を捉えようとする。この『燎火』は、否応なく時間に晒されるしかない人間、という視点から読むとき、一つの明確な顔を現わすのである。
  まかがやく五月来にけりバルチック艦隊洋上に在りしかの日々
  天保十五年四月甲辰狛犬のこの眸にひかりさし初めし日か
  明星の光増しゆく宵の空人間を乗せ飛ぶ灯がうごく
  夏の夜の膝が疼けりぼうぼうと銀河のはてに恒星ついゆ
 一、二首目では、作中で過去と現在が対比・照応されている。かの日も今も、同じように「まかがやく五月」は訪れ、同じように「ひかり」は差しつつ、しかもそこには絶対的な隔たりが横たわっている。一方三、四首目では、作者が今立つ〈ここ〉と〈彼方〉とが空間的に対比されていると言える。そうした時間・空間両面における立体的な視座を持つことによって、作品はおのずと一つの哲学として読者に提示されている。
 そうした時間的・空間的な〈ここ〉と〈彼方〉と対比・照応、それが最も端的に集約されているのは、亡き人への思いを歌った作品である。
  小さな脳切られても君は笑ってた再た切られても笑ってた梨子 もういない
  もういない君の誕生日に来るハガキ眼鏡屋だけが祝ってくれた
 幼くして亡くなった孫と、妻への挽歌である。両者にみえる「もういない」という語が、素朴であるぶん逆に雄弁に作者の悲痛を伝えている。
  隣り家の虫めずる姫の声透る とっつかまりし青の声も
  地下街にならぶ漆黒のマヌカンの指先〈出エジプト〉を促すようで
  さかしまに時計の針回る理髪店出ずればしばらく宇宙酔いの街
  犬も猫も降ってはこない花日和日曜大工の槌の音する
 最後に、ユーモアを特色とする歌を挙げた。こうした自在さを基盤としつつ、生々流転の諸相を描き、時間の本質を手触りとして示したところに、この歌集の世界があると言える。

真摯のまなざし
上田善朗歌集『三方五湖』

書評 新井 瑠美

三方五湖

 上田善朗第一歌集『三方五湖』を前にした時、若狭国定公園の一大パノラマを展望したことを思い出した。三方湖、菅湖、久々子湖、水月湖、日向湖を示されながら、美しい景観に魅了されていた。昔のことである。忘れていた景色が立ち返ったのは、歌集名がもたらしてくれた恩恵といえようか。  美麗に仕上った歌集の帶には、河野裕子氏の〈序〉から抜粋された〈歌の方位の広がりをじっくり味わって戴きたい〉とあり、その手応えを感じた四百二十余首である。
  湖渡る風に道あり水月湖の梅の花びら筋なして飛ぶ
 導入部の二句切れが歯切れよく、美しい情景を見せている。
  湖の辺の梅の畑にうづくまる眼するどき抱卵の雉
 野雉を見ることはめったにない。抱卵の雉という、一遇のチャンスがシャッターを切らせた。親雉の威嚇が見えよう。
  浜に干す鰈を透かしあかあかと若狭の浦の冬の落日
 若狭鰈の浜干しを透かして見た冬の落日の赤さが印象的。目にしたものを丁寧に叙述する著者である。一読あざやかに結ぶ映像に安定性があり、すんなりと読む側に伝わる。自然の恩沢に育まれた著者の、純一の表白であり、堅実な人柄もうかがえるようだ。
  久々に訪ひゆけば母は端居してこの世に浅く腰を掛けをり
 〈この世に浅く腰を掛けをり〉に何とも慎ましい母上を見る。真ん中に座るまいぞと言ったのは史であったか。
  神様より今日もよき朝貰ひしと花に水遣る九十の母
 日日を感謝で生きてこられたご長寿の母上のお姿がうれしい。
  水月湖の母訪ひゆけば秋の陽をひろふごとくに小豆選りゐつ
 小豆を選るという気長いことを美しい喩でなり立たせた。母上を見やる目がやさしい。亡き肉親に寄せる鎮魂の掛け橋も、それらの延長にあって多くを物語っている。
  髭を剃る鏡の中に父のゐて到頭お前も還暦かと言う
 鏡の中の父は還暦の著者自身であろう。年歯を重ねて父に似てきた自嘲とも、諦念ともいえるものが漂う。
 『三方五湖』の重きをなす章がある。
  若狭路は仏の多き里にして原子炉までが「ふげん」に「もんじゆ」
 原子炉に菩薩の名がつけられたことでアイロニーの様相となったか。〈までが〉に著者の批判がみえる。
  原子炉の七基を岬に置く町に海鳴り聴きつつ春を待ちをり
 あとがきに力強い言挙げがあり、これからも直情をわがものとして継続の、真摯のまなざしを感じる歌集である。

右手に比叡
横山恒雄歌集『叡山 』

書評 亀谷 たま江

叡山 

 遺歌集である。七十歳を過ぎて短歌を詠みはじめられた作者であるが、歌集『叡山』に並ぶ歌は若く自在な感性にあふれている。
  父四年母は一年前にして吾の課長を知らず逝きにし
 歌集の四首目にこの歌がある。私はこの歌が好きだ。「吾の課長」が、しみじみと心に染みる。仕事に全力投球の若々しい作者と、ふるさとのご両親の関係もほのぼのと伝わってくる。素直に喜んでくれたであろう父や母がいつも心にあるのでしょう。その両親に繋がるふるさとの歌が歌集の中に日常の暮らしとバランスをとるようにポツリポツリとある。
  遙かなる村の半夏は田植終えどの戸も休みうどんを打ちいき
  釣瓶にて風呂水汲みし遠き日よその頃時間はたっぷりあった
  麦畑の果に上りの汽車を見て「昼食にしよう」と言いいし母は
 どの歌もうまいと思う。一首目は結句があざやかだ。一瞬にして私を遙かな村へ連れていってくれる。二首目は水音が聞こえてくる。上句と下句がうまく呼応して下句がより魅力的となった。三首目は、記憶の中の日常が何ともあたたかく心地よい。
  山のみち若葉が青葉に変る頃えごの木花を零して白し
  枯芝のなかの緑はかたばみか眠れる時間というものはなし
  黙々と登る山みち縦列の前者のリュック背嚢に見ゆ
 退職してから山登りもはじめられた。楽しそうな山歩きの歌が並んでいる。歩きながら物を思うといつもより気持ちが自由に広がるようだ、と思いながら読んでいてその中の一首にドキリとした。三首目である。前を行く人のリュックが背嚢に見えるというのだ。そう、作者は兵役に服している。戦争に行っているのです。大混乱の中を、世の中が急変する中をいさぎよく生きぬいた一人の男を歌集の中に感じる。
  缶ビールのせいかも知れぬ子と吾のテーブル程の溝は埋らず
  古稀の妻完璧主義のなお萎えず頼もしきとき憎きときあり
 かって猛烈事務官であった作者が息子の心を理解しようと苦しんでいる。妻の歌は手放しでおもしろい。「あなたは、偉いよ」と、いうところか。子や妻への目線の向け方がどこかユーモラスである。やさしさに少し不器用な家長が目に浮かぶ。
  真直な長きこの道いつよりか好み歩めり右手に比叡
 横山さんは、元気なまま瞬時で浄土へ旅立たれたという。ご家族の悲しみが歌集『叡山』の刊行となり、ご家族はもちろん、私たちにも横山さんは歌集という形で残られた。会いたくなったら本を開けばいい。いつでも会うことができる。

パラボラ俳人、宏子さん
連宏子句集『揺れる 』

書評 中原 幸子

揺れる 

 連宏子さんとはある俳句の講座でときどきお会いする。それがいつもくやしいのだ。『揺れる』を上梓されて絶好調の宏子さん、こんな句を出されるんだもの。

  文机に白水仙とプログラム

 朝の静かな文机。一輪挿しの白水仙。思い出すのもうれしい昨夜のコンサート。京都・深草でおっとり、はんなり日を刻んでおられる優雅な生活が目に浮かぶ。なのに、こと俳句となると、目の前のものをすいと取り合わせて抒情ゆたかな一句にしてしまう、このすばやさ。きっと、宏子さんはゆっくり廻るパラボラアンテナのような人なのだろう。『揺れる』には宏子さんの五感が並々でないことを感じる句がいっぱいだから。むろん、アンテナにかかったものをどう取り合わせるか、そのセンスの良さがあればこそで、でも、それをみせびらかさないところが、これも力量のうちなのだ、こんなふうに。

  D・N・Aの響く音する秋祭
  出番待つ楽器ざわざわ秋の夕
  秋日差障子の白の匂うかな

 そして、見つけた詩の種をちょっとずらしてみせるユーモアのセンス。

  グラマーなハープ奏者の晩夏光
  夫の忌に集う一族花粉症

 一心不乱のハープ奏者を「グラマーなお人どすなあ」と眺め、晩夏光の中に浮き上がらせて読者をクスリとさせる。
 夫の忌日で、花粉症にも拘らずみんな集まって供養してくれているというのに、それを句に詠み、あまつさえ句集に堂々と載せるなんて。でも一族はきっとにこっとするのだ。

   戒名受く
  さやけしやわが名「浄宏」賜りぬ
  晩学の眼鏡あたらし冬銀河

 さっさと戒名なんかつくる。ところがどっこい、眼鏡を新調してまた何か始めてしまう。そして、「あとがき」がまた、なんともいいのです。素直でかわいくて(失礼!)。『揺れる』の俳句たちは宏子さんのこの温かい、いつもまっさらな心から生まれたのだ、と納得の余韻です。宏子さん、大好き。

米寿を越えて
永田嘉七句集『西陣 』

書評 大槻 一郎

西陣 

 私は、まだ永田嘉七さんにお会いしたことがない。なのに永田さんの句集『西陣』の鑑賞の機会を得たのは、超結社の俳誌「晨」(発行人?宇佐美魚目・大峯あきら)の取り持つ縁である。永田さんの俳句の先生であり、『西陣』発刊に際して、こころ温かな序文を寄せられた西尾一氏は、この「晨」の同人で私の大先輩にあたり、骨格の正しい俳句を創られる作家である。また今回の私に対する直接の依頼者の藤田良二郎氏も「晨」の同人で、永田さんのご子息で歌人の永田和宏氏とはアメリカでの医学留学生時代からの友達だと言う。私は、藤田良二郎さんが毎年設営される越前を巡る少人数の句会に参加することを何より楽しみにしている。こんな俳縁を大切に思いながら『西陣』を繙くことにする。永田嘉七さんを直接知らないことが逆に作品のみを通して永田嘉七さんを知ることが出来ればと願っている。
  五十年ひたすら妻の墓洗ふ
  花のこと命終近き兄に言ふ
  供花のなき兵士の墓も彼岸かな
 永田さんは、大正九年生れの今年八十四歳になられる。長い年月の間には、妻に先立たれ、兄の臨終に立ち合うことになる。第一句目の上五の「五十年」は、無造作で大胆な措辞であるが故に、誠実に生きぬいた作者の心ばえを一層鮮明に映し出している。第三句目の名も知らない兵士に注ぐ目差しは、他者をも思い遣る優しいこころ根を感じる佳句である。
  西陣の機音いまも花吹雪
  池の面を疋田絞りに夏の雨
 これらの句は昭和二十五年に西陣織物問屋を再開し、その仕事場への追憶であり讃歌である。絹織物の絞り染めの美しさと心地良い機の音から生き生きとした作者の立振舞を見る。
  春昼や泪目の牛繋がるる
  土塊の中より濡れし蛙の目
 これら二句の動物を注視する作者には、きびしく対象を捉える俳人の眼がある。ただそれだけでなく、この牛に、この蛙に、優しい人間の眼が注がれている。
  本堂は凡そ百畳秋の風
  望月を真上におきて雲はしる
  山麓の一灯遠き寒暮かな
  五月雨や門閉ぢしまま寂光院
 これら自然詠の作品もすばらしく、何より俳句の格と言うか、品格を内包した作品である。
  万両やあとは米寿か天命か
  補聴器に初音授かる朝かな
 ほのぼのとした老いの美しさが感じとれる俳諧ぶりである。「米寿」「天命」「授る」の言葉は、この作者だからこそ似合うのであろう。米寿を越えて活躍いただきたいものである。