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青磁社通信第八号VOL.82003 年 6 月 発行

巻頭作品
修二会

島田 修二

恩愛の限りなくして修二われ東大寺に居り松明を待つ

修二いま二月堂です宮先生寺山君そして津島修治さん

竹矢来つかみて誦すは知る限りそらんじてゐる和歌やまと歌

いま在るを奇蹟といはむ松明がなほ生くべしと走りすぎゆく

修二会の炎が修二の前を過ぎ去つたその余の事はこの世の事だ

限りなき慈愛になみだとどまらずちちのみの父ははそはの母

松明の余燼ひとひら余人にはかかはりあらず神棚に入る

エッセイ
亀屋の破産

岩田 正

 「南口の会」という、仲間の短歌会の歌会の指導に、月一回通っている。南武線の武蔵溝ノ口という駅を降り歩いて十分位のところに「大山街道ふるさと館」という建物がある。そこの一室が会場である。  この建物の由来は、江戸時代から明治・大正時代にかけて、この通りを大山街道と呼んでいたからである。駅を出て、しばらくするとこの街道に出る。大山街道は、矢倉往還とも呼ばれ、赤坂御門を出発した街道が、三軒茶屋・用賀を経て、この溝口を通り厚木に至り、そして大山の方へ進む。大山街道は大山詣り大山講の人で賑わったそうだが、これは現在も続いている。
 ある日、私はこの建物の名前「大山街道ふるさと館」というのが、きっと由緒あるものであると思い、館の人にきいてみて、そして前記のようなことがわかったのである。それともうひとつ、私が格別に、この街道に興味をもったのは、駅を出てこの街道に入る四辻の角に、亀屋という店があるからである。いやあったからである。
 「多摩川の二子の渡をわたつて少しばかり行くと溝口といふ宿場がある。其中程に亀屋といふ旅人宿がある。」という書き出しの、國木田獨歩の名作「忘れえぬ人々」の冒頭の一節が、私の心に忘れがたくあったからである。この小説は一人の若い作家が、亀屋に泊るのだが、その隣室にこれも若い画家がおり、無聊のまま酒を汲み交しながら、作家は自分の触れた忘れることのできぬ人、二三について詳細に語る、という筋書きである。
 忘れえぬ人は、何も特別の才能も技倆もある人ではなく、天地自然の中に、悠悠自適の生活を送り、作者のかたわらをひっそり通り過ぎてゆく、そんな趣きをもった人。どこにでもいる、ごくありふれた人でありながら、その風姿は作者の眼に、ある人生上の静かな寂しい陰影を落としてゆくのである。  この若い作家(の卵)は大津弁二郎といい、多分國木田獨歩の分身であろう。画家の秋山松之助も一介の新鋭画家にすぎない。琴瑟相和した二人の出会いを、獨歩はこう記している。
 「『こんな晩は君の領分だねェ。』秋山の声は大津の耳に入らないらしい。返事もしないで居る。風雨の音を聞て居るのか、原稿を見て居るのか、将た遠く百里の彼方の人を憶つて居るのか、秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の眼元は我が領分だなと思つた。」  そして作家の忘れえぬ人々の回顧談へと、この小説は展開してゆくのである。結末の意外性というか、実はこの小説の本旨からすると当然なのであるが、その意外性が、この小説を不朽の名作たらしめたものであるのは言を俟たない。
 「其後二年経過つた。大津は故あつて東北の或地方に住つてゐた。溝口の旅宿で初めて遇つた秋山との交際は全く絶えた。恰度、大津が溝口に泊つた時の時候であつたが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向つて瞑想に沈むでゐた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあつて、其最後に書き加へてあつたのは『亀屋の主人』であつた。『秋山』では無かつた。」
 実はこの主人は、だしぬけにこの亀屋を訪れた大津を迎えた、実に平凡な、そして大津の挙動に対して「不審さうな客の様子を今更のやうに睇めて、何か言ひたげな口つき」をしたり「主人の言葉はあいそが有つても一体の風つきは極めて無愛嬌」であり「何処かに気懊しいところが見えて居る」が「しかし正直なお爺さんだな」と大津に思わせたりするような人物として描かれている。
 私がこの小説を、忘れがたく思い、そして獨歩のもので一番好きであるのは、忘れがたき人々の描写と、この結末があるからである。実は亀屋の主人は、最初の方にすこし書かれ、後出て来ない。にもかかわらず自然主義文学の代表的作家である、この独特の獨歩の人生観が、獨歩の人に惹かれてゆく秘密が、さりげない僅かな主人の描写にあらわれている。  このことが懐しく、自分の講座の往還に、亀屋の大きな硝子戸の中を覗くことにしていた。さき程、私はこの亀屋という店が「あるからである。いやあったからである」と書いた。それは、ある日、この硝子戸に破産宣告のビラが貼られていたからである。広い硝子戸の中は、ガランとひどく暗くうそ寒い。通る人は、ほとんど何もしらない。当然見むきもしない。
 一つの歴史がつぶれたのだ。文学碑として残しておきたい家がつぶれた。私は歌会の往きと帰り、あえて意識的に、この硝子に顔をあてて内部の暗がりをのぞくことにしている。「亀屋会館は平成13年10月に閉店しました。」(『大山街道今昔物語』)とパンフレットにはある。

「雪送り」の 里びとへのエール
西垣田鶴子歌集『雪送り』

書評 池本一郎

雪送り

 夜久野はスイスに似ている、という。
 「この里はスイスに似ると永住を決めし画家の言うわが住むあたり」という一首の「わが住むあたり」には、どんなもんだいという誇らしさが(私が言うのじゃなくてよ、という謙虚さとともに)読み取れる。著者西垣田鶴子さんが「人生の大半を送ることになった」夜久野。京都府の西端、丹波国が深く切れこんで但馬(兵庫県)へ抜ける国境の町である。
 序文で永田和宏氏は、夜久野町の「不思議な名前」に言及し、地名の由来について、田倉山の噴火による〈焼く野〉説および薬草の多い野の〈薬野〉説、を紹介している。
  等圧線こみ合うあたり山沿いのわが町この週雪だるま並ぶ
  照り翳りおもむき変わる雪国の森はガラスの粉のごとく光る
  千両のひとみつやめく雪兎掌に乗せさんぐわつ わが雪送り
 歌集巻頭の「冬の雷」「凍て鶴」「雪おこし」には、こうした夜久野の冬がひしひしと歌われている。雷に顫うわびすけ、赤い実を食べた小鳥の赤い糞、うす紫に翳る凹凸の雪原、孟宗が雪に裂ける音、村一つかまくらとなる深雪、凍て鶴のように雪道に片足で立つ子、余剰を許さぬ寒月光、夫の手に掛けて糸を巻く雪の朝、……等々。自然と人とが織りなす冬景色であるが、それらはおおむね厳しい。
 ところで「永住を決めし画家」鈴木健一氏はこの歌集の装幀者であり、表紙は同氏の雪の絵である。雪に覆われた田園の風景画だが、白い雪原と青みがかった山や空とのとてもリアルな写実で印象ぶかい。それはなぜか、きびしいというより暖かい感じを受ける。心のおちつきやなつかしさを覚えるし、もっと敬虔な思いさえ湧いてくる。「雪送り」のイメージにぴったり、ということだろう。じつは後に「塔」(三月号)に西垣さんが鈴木氏の原画について書いている。昨年ロシアでアカデミー賞など受賞、今年は上海やパリの美術館に出展、という。
 「雪送り」は「雪迎え」と一対のことばだろう。鳥取の雪国の私は、雪をお迎えしお送りすると思っている。きびしさは、その里の人々を保護してくれる。生活と結びつき、季節を巡らせ、復活を約束する。夏の魂迎え・魂送りが過去と現在への心なら、冬の雪迎え・雪送りは現在と未来への心ではないか。私の雪国で、私はそう思う。それともう一つ、大切なこと。
  学び変わる楽しさにいる少年の声が耳朶打つかろやかな夕
 「学び変わる楽しさ」を言う著者がいちばん好きだ。
  森の音かそかな芽吹き羽化の気配 風が消しゆくまでを聴きいる
  わが裡の部屋一つふやす描きたき声に押されて学ぶ絵画に
 こんな向上志向の歌がとてもいい。「大宇宙の仕組みにかそかはめ込まれ雪積む下の微塵の暮らし」は立派な自覚だ。

どこまでの「あたし」
河野麻沙希歌集『校門だっしゅ』

書評 松村由利子

校門だっしゅ

 完全にやられた。いろいろな「あたし」が出てくるなあ、と少々訝しく思いながらも、何か懐かしい思いを抱かされて歌集を読み終えた。そして、花山多佳子氏らによる栞の解説を読んで初めて、作者が男性であることを知った。
  あたしらの濃度を変えることもなくニアウォーター回し飲みする
  男女4人ゆるく結合されたまま17歳の夕焼けをみる
 主人公は女子高校生である。現実世界と希薄にしか関わらない10代の感性が、「ニアウォーター」「ゆるく結合」によく表れている。かすかに「これでいいのかな?」と濃密なものへの希求を漂わせているあたりも巧い。
 しかし、作者は「あたし」によって何を描こうとしたのだろう。誰にでも覚えのある、思春期の淡々しい恋だろうか。
  「デジカメはすぐに消せる」と呟いたきみとあたしで撮るツーショット
  うざったい前髪みたく切り捨てるあたしのためのあたしでもいい
 デジカメや茶髪などの小道具をあしらい、「うちら」「こくる」といった流行語を使っていることから、「現代」を切り取りたかったと考えてよいだろう。その試みは成功していると言ってよい。ただ、歌の鮮度が短くなることや、読者を狭めてしまうことは作者自身よく知るはずだ。スピード感も歌集の魅力の一つだが、そのために少女の印象がやや平面的になった感が否めない。素材として万引きや親への反感を取り入れてはいるが屈託が足りない印象を持った。作者が少女を「よきもの」とし、なり代わって詠むという形式を選んだからには、わわしいだけでなく、もっと魅力的な少女を描いてほしかった。
  突然に会話はとまり思考では二児の手を引く両親になる
  一年で一番長い午後だからあなたのひざで猫になりたい
 歌集の中では、むしろこうした、作為をあまり感じさせない作品の方に惹かれた。男友達と一緒にいる時にとんでもない空想をしてみたり、獏とした気分に対して何かの必然を求めたりする少女は、流行語を用いた歌の中よりもリアリティがある。ちょっと太宰治の「女生徒」を思い出したほどだ。
  この星の言葉は全部ただ単にあたしの歌になるためにある
 雰囲気は先の二首よりも騒々しく、ツーショットや茶髪の歌に近い。しかし、「この星の言葉は全部」という概括や、ある時期の少女だけの持つ全能感が、うまくブレンドされている。最も成功した「あたし」の歌であり、この歌を歌集の最後に置いたところからも作者の確かな作戦が感じられる。
 歌集刊行後も「あたし」の歌を作り続けている作者が、次はどこまで「あたし」になれるか楽しみだ。

高安国世と 「青葉の会」
青葉の会歌集『青葉』

書評 櫟原聰

 高安国世を師として仰ぐ「青葉の会」が、このたび会の40周年を記念して合同歌集『青葉』を上梓した。リルケの研究者としても知られる高安氏の歌集『夜の青葉に』にちなんで命名されたこの会の歌会に、氏は毎月欠かさず出席したという。私が高安氏に出会ったのは、京大入学時、今から31年前であり、当時研究室に訪ねて氏の歌集『虚像の鳩』を、また、自宅にお邪魔してリルケ詩の訳書を頂戴したことが思い出される。リルケの詩の翻訳について勝手な意見を述べたりしたので、少し困惑されていたのではなかったか。大山定一氏や手塚富雄氏の翻訳との比較等、自らも楽しげに語っておられた。私自身は、氏の『オルフォイスに寄せるソネット』の訳がすぐれていると感じていた。『リルケと日本人』にも述べられているような軽やかさがよく出ているように思われた。朗々と朗読された声が懐かしい。「青葉の会」の人たちも、似たような経験をもっておられるのではないだろうか。京大短歌会でお世話になり、「塔」の歌会に顔を出したこともあったが、「青葉の会」については全く知ることがなかった。本書によってはじめて知ったという不明ぶりなのである。
 リリシズムと近代感覚を重んじ、平板な日常生活詠や自然描写から脱却しようとする師の姿に共鳴し、「青葉の会」は、短歌の枠に留まらずに、文芸全般の中で、文化として短歌を捉えようとして歌会を続けてきたという。結成二十年後に師は亡くなられたが、その後も会は継続され今日に至っている。
  妹弟子と言い下されし温けさ君に隨き来し四十年ぞ  諏訪雅子
  青みたる空より降るつゆじものひたりと夜半のわが胸霑らす
 諏訪雅子氏が会の代表格で、自己の存在理由を問い、「人生哲学」を求め続けながらも、詩としての短歌をしなやかに歌うところに、強さが潜んでいる。高安氏にとっては妹のような愛弟子であったのだろう。
  あたたかく独り居しつつ大雪のしずるる村の雪ことば聞く  坂田久枝
  アフガンの灯ともし頃の山岳の青き奥ゆき遠く空澄む
  雪みずにあかるく光れる一樹あり 星座のごとき銀河のごとき  竹田千寿
  踏み入れば樹々の間に気の満ちて吾を一木として森はしずもる
  夕飯を呼びにゆきしがこれの世に夫と交せし最後となりし  河野君江
  何という安らかな顔で眠れると額にふれたり夫は死にいき
 ひとりひとりが、自己の歌に向き合って、個性と生活をしずかに響かせた歌集である。

なんの古傷 一つや二つ
小森倭子歌集『ことばこぼれて』

書評 青木昭子

ことばこぼれて

 小森さんは、気配りの人、懐の深い人、私が私がと云わない人、それでいて毅然とした芯のある人。重ね甲斐のある齢というのを小森さんに会う度に実感する。  毎年二月、宮崎で恒例の牧水賞の授賞式と祝賀会がある。大勢が参加する二次会場の裏方を黙々と勤められ、温顔にはいつも微笑が湛えられている。年一回の出会いで何を話すということもないけれど、その温顔に接すると宮崎へ来たんだというホッとした気分に包まれる。
 『ことばこぼれて』はそういった小森さんをよく現し、事々しくない静かな滋味の漂う歌集である。
  何時しらず日暮れとなりて玄関に回覧板の置かれてゐたり
  日照り雨上がりし午後の裏口につはぶきの束置かれてありぬ
 このような大らかな、さりげない暮しというのをわれわれはもう失って久しい。玄関も裏口も他人の出入り可能とは余程の信頼関係が暗黙に成り立っている証しだろう。そうした環境に調和された著者の暮しの日々が綴られているのが本集である。
 だがしかし、時にはなかなかにテンションの高い歌が混じるのも見逃せない。
  残忍になれる芽を持つにんげんの一人ぞ朝の珈琲の味
  憤り沸点に近く吾は今ひくくゆつくりもの言ひはじむ
 一首目の「一人ぞ」の強調に「残忍の芽」が陰湿を帯びて立ち上がる。この歌の置かれた前後の関係性が視えないので残忍の芽を具体的に云うのは難しいが、珈琲に毒を忍ばせることも魔が差せば出来る。それが人間である。また不気味で怖ろしいのが二首目だろう。滅多に怒らない人が怒るとこうなる。理性のゆえにである。ヒステリックに喚くのをとり鎮めるのは案外簡単だが、尾を引く厄介な怒りとはこの歌の持つ状態を指すのではないだろうか。
  木刀も竹刀も置かれたるままに一日一日は音たてず過ぐ
  迎へ火はどんと焚くべしわが為に何時か焚かれむ火は猶更に
  秋風となりてかすかに痛む膝なんの古傷一つや二つ
  症状は〈老〉と答へむ治療待つ椅子に掛けゐて取留めもなき
  うろたへぬ女になりて年越しの夫の生家に猪鍋つつく
 そこやかしこに抽出のような立ち止まる歌が配置され、主張を控えた一冊の読後は腹八分目の程良いそれに匹敵する。「なんの古傷一つや二つ」、「症状は〈老〉と答へむ」、「うろたへぬ女」の、秘めて持つ胆力にこそ女の価値ありと私は思っている。つまり、よき年月に培われた所産なのである。
  きみどりの竹の葉つぱの揺るるとて幼が一つことばこぼせり

自己を律する歌
末原登美子歌集『金鈴子』

書評 入谷稔

金鈴子

 稀有と言うべきであろう。一巻、四百首ほどのほとんどが旅の歌で編まれている。あとがき等から察すると、三十年の歌歴をもつ八十歳になんなんとする作者の第一歌集であるから、何が詠まれていてもおかしくないし、境涯詠の一首や二首あるのも普通というものであろう。また、二十五回忌を迎えるという夫を詠んだ歌、あるいは、孫歌や厨歌などがあっても不思議ではないのに、この歌集にはほとんど見当らない。
 あとがきに、まわりに迷惑をかけないように、誘われるままに、国内旅行や海外旅行にたびたび参加したとあるが、これははからずも、他人に頼ることなく、自己を厳しく律して生きて行こうとする作者の深い配慮から発したものであろうと察せられるが、これらの姿勢は、作品の上にも、いたずらに言葉を弄することなく、主観を排して写生に徹するという形であらわれている。作品を見ていこう。
  魚市場あまた並べしトロ箱に値札をつけし蛸が這いおり
  路地ふかく朝の祈りの聞えくるカスバの床屋椅子一つ置く
  禅林に女のつどいあるらしき障子もれくる声はなやぎて
  巻きぐせのつきし設計図足もとに新緑の風がもてあそびおり
 一首目の「魚市場」の歌で詠まれたトロ箱から蛸が這い出る場面は、いまさら取り立てて珍しい風景ではないが、自らの値札をつけて這い回る姿には、ユーモアを超えて哀れを誘うものがある。だが、この作者は、一切の主観を交えずに「蛸が這いおり」と淡々と詠むだけである。このことは、二首目の「路地ふかく」の歌についてもいえる。カスバの言葉からアルゼの映画などが浮かんできて、何事かを加えたくなるのが人情というものであるが、この作者は、それらの余分な言葉を一切加えないで、アフリカの町の一隅の風景を切り取るだけである。
 三首目の「禅林」の歌は、何事かで禅寺を訪れた折りのものであろう。本来、禅僧の修業の場であるべき禅林に、女のはなやぐ声が聞えるのは、いくら観光ばやりのこの頃であっても、場違いな感じはいなめない。まして三十有余年、教職にあった作者には目に余るものと聞えたであろう。それでもこの作者は事実をありのままに詠むだけで、批判がましい言葉は一言も使わない。使わないが、このあきれた風景に疑いの目をもった作者の心は、作品にされたことで、十分に読者に伝わる。
 四首目の「巻きぐせ」の歌についてみると、どういう状況のもとで詠まれたものかわからないが、新緑の風に弄ばれる巻きぐせのついた設計図だけは鮮明にとらえられている。いまさら珍しい対象ではないはずなのに、「巻きぐせのついた設計図」と詠まれてみると、なるほどというほかはない。
 なお、この歌のおかれた一連七首のうち、写生の歌に使われることの多い「おり」で終わる歌が四首もあるのは、まったくの偶然であろうが、自らを厳しく律して、写生の徹底に努めようとする作者の歌に対する姿勢を語って余りあるように思われてならない。