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青磁社通信第一号VOL.12001 年 9 月 発行

エッセイ
「うつしゑ」という語

安田 純生

 現代の日常語では使われないけれど文語体短歌ではよく使われる語というのがある。古語の場合は、日常語に用いられなくて当然であろうが、すべてが古語というわけでもない。
 日常語では、まず使われない短歌用語の一つに「うつしゑ」がある。「うつしゑ」は、現代の短歌の世界ではありふれた語なので、用例をあげる必要はないかもしれない。しかし、短歌に親しんでいない人にとっては、必ずしもありふれた語ではないだろうから、念のために三首だけ用例をあげておこう。
  この部屋の師のうつしゑを拝したりなんぢやもんぢやの木の下を来て
  (小野興二郎『歳月空間』)
  挙手の礼永久に解かざる写し絵の伯父におよべる新年の光
  (関根和美『クレヨンの日々』)
  写真に揃ひゐる顔うつつならぬ一点に向き笑みてをりにき
  (穴澤芳江『人みな草のごとく』)
 三首目の歌に「写真」と表記されているように、「うつしゑ」は写真を意味する。「師のうつしゑ」は「師の写真」であり、
「写し絵の伯父」は「写真の伯父」である。というよりも、現代の短歌では「うつしゑ」が、普通、写真の意味で用いられている。幻灯や子供の玩具の一種を意味する「うつしゑ」もあるが、そういう「うつしゑ」は、現代の短歌には、あまり出てこない。現代の短歌作者や短歌読者の多くは、「うつしゑ」とあれば写真だと直ちに了解するはずである。右にあげた三首では、いずれも人物写真が詠まれているけれど、写真であれば、もちろん人物写真に限らない。
 では、この「うつしゑ」は、いつごろから短歌で用いられるようになったのだろうか。実は歌ことばとしての歴史は意外に古く、室町時代までさかのぼり得る。その意味では「うつしゑ」は古語である。昨年、和泉書院から刊行された「公宴続歌」から例を引くと、
  はかなしやよそに心はうつし絵の面影をのみうつしおきても (飛鳥井雅俊)
  音なしに流れぞ出づるうつし絵の滝のしら波しのぶ涙は (飛鳥井頼孝)
  うつし絵の筆もおよばじ横雲を霞いろどる春のあけぼの (甘露寺元長)
などが、「うつしゑ」を読み込んだ中世和歌である。前の二首は永正十四年(一五一七)に「絵ニ寄スル恋」を題にして詠まれた作、三首目は永正十八年に「春ノ曙」を題にして詠まれた作。一首目の雅俊の歌は「よそに心は移し」といいさして、そのまま「うつしゑ」と続けている。「恋人が他の人に心を移したので、自分がその人の面影を写し絵のように心に写しておいても、はかない」という歌意であろう。あとの二首については歌意を説明する要はあるまい。雅俊の歌の「うつしゑ」は人物のそれであるが、二首目は滝のそれ、三首目は春の曙の風景のそれである。
 もっとも、「うつしゑ」が室町時代以来の歌ことばだといっても、雅俊らの歌の「うつしゑ」は写真の意ではない。写真術の発明は十九世紀だから、当然、十六世紀の日本に写真はなかった。もともと「うつしゑ」は、写真を意味する語ではなく、文字どおり「現実を写した絵」のことであった。江戸時代になると、「うつしゑ」を詠んだ作例も増加し、歌ことばとして定着した感がある。写真も現実を写した絵の最たるものといえるかもしれないが、「うつしゑ」が写真の意に限定されるのは、やはり明治時代に入ってからである。  明治十一年(一八七八)十一月に出版された「開化新題歌集」には、「照影」の題のもとに写真を詠んだ二十二首の歌が収められていて、そのうちの五首に「うつしゑ」の語が用いられている。一例をあげると、
  伝へこし筆もおよばじ此ごろのこれや誠の千世のうつしゑ (増山喜久子)
では、筆で描いた従来の「うつしゑ」の及ばない本当の「うつしゑ」が写真だと歌われている。新派和歌では落合直文の歌に、
  逢ふこともかたくやならむ故郷の母のうつしゑとり見つるかな (『萩之家歌集』)
とある「母のうつしゑ」も、肖像画ではなく写真であろう。
 「うつしゑ」は五百年ほどの伝統を持つ歌ことばである。ただし写真の意で「うつしゑ」が用いられ出したのは『開化新題歌集』の頃のようである。写実的な人物画や静物画・風景画は、本来的な「うつしゑ」といえるが、それらについては、現代の短歌では「うつしゑ」といわなくなっている。それゆえに、たとえば「母のうつしゑ」とあるのを、「母の肖像画」の意かもしれないと思う短歌読者は、おそらく稀ではあるまいか。

やさしい時間に包まれて
大田千枝歌集『やさしい時間』

書評 川本千栄

やさしい時間

 人は生きている時間が長ければ長いほど、他者との死別を多く経験しなければならない。いかに心を込めて接しても、去るべき時が来ればその人は去っていってしまう。大田千枝さんの歌集『やさしい時間』には、そんな別れの歌が多く収められている。
  まだ温き妹の顔に白布かけ看護婦は病室を出でてゆきたり
  妹が一匙食みてあづけゐし氷菓をナースの冷凍庫より捨つ
  菊だけは供へくるるなと言ひし友の声ありありと再び逢へぬ
  おほかたは灰と化したる母の骨折れゐし右腕あたりが赤し
 悲しい別れを描きながらも、歌は感傷や甘さに流れていない。別れを取り巻く日常の世界へも作者の視線が向けられているからであろう。特に、妹さんが三人の幼い子供を残して癌で亡くなられたときの一連は、抑えた歌い方から却って深く作者の気持ちが伝わって来る。歌集の中にはたしかに「やさしい時間」が流れているのだが、そこには多くの悲しい記憶も息づいているのだ。
  雨靴の小さな足がたち止まり傘に降る音ききてゐるなり
  柿の木に鳴きつぐ蝉を捕らへむと見上ぐる子供は踵をあげて
  三歳の息子が初めて書きし字のうらがへしの「あ」が柱に残る
  ローカル電車の窓に子の家みゆるなり合歓の花群とぎれし辺り
 働いておられた保育園の園児、また夫や息子など回りの人々に向ける目は暖かい。こんなに愛情の豊かな人は逆に寂しい思いをすることが多いのではないかとすら思えるぐらいである。幼い園児や自らの息子など、子供たちと同じ高さの目線で作られた歌には作者の心の柔らかさが表れている。しかしそれらの歌の多くは回想である。息子は離れ住み、両親は世を去り、やがて自らの老いを見つめる歌が多くなる。
  家中の明かりをつけてひとりゐるいつかこんな日が本当にくる
  特急の停車駅あるわが町も小学生より老人多し
  みはるかす月ヶ瀬梅林おぼろにて会ひたき人はみな故人なり
 回想の歌、あるいは現在の歌。それら一首一首から一人の女性の人生の断面が浮かび上がってくる。それは同時に日本という国の時代時代の断面でもあるのだ。
  行水といふなつかしきこと思ひ出づ天花粉つけ子の幼かり
  駐在さんは不在なり一本の匂ふ笹百合バケツに入れて
 いつか私たちの身の回りから減っていったゆったりとした時間がこの歌集の中には静かに流れている。この本を読めば、誰もがその時間を共有することができるのである。

ひとりの曳航
万造寺ようこ歌集『うしろむきの猫』

書評 小林幸子

うしろむきの猫

 『うしろむきの猫』には印象の濃い少女たちの歌がある。作者万造寺ようこさんは長い間女子校の先生をしておられた。
  水泳を終へし少女のからだより水の流れが教室にくる
  少女たちはきもちいいねとわらひながら杉山奥へなほもいざなはる
  ものうげにしやがんだ少女も雑草を抜いてゐるうちむきになりたり
 これらの歌は教師からみた女生徒たちの姿ではない。作者は「少女」というみずみずしく、ときにあやうく、ものうげな存在を、彼女たちと同じ目の高さでうたう。ほの暗い杉山奥へいざなわれゆく少女も、いつのまにかむきになって雑草を抜いている少女も、作者自身のうちなる少女なのではないだろうか。立場や関係性を沈潜させ、深々としたまなざしで存在そのものをみつめるという作者の歌の特色は家族の歌にもみられよう。
  こころ病む子は髪を切りに出でゆきぬ夏水仙は風に漂ひ
  そのひとは自分だつたといひし子よ菫の色にゆふべは至る
  蟹ちらし一緒に食べようと思ふ娘は眠る 寒さがしづしづとくる
 こころを病み死を身近に意識している息子に、ふれがたく見守るのみの歌はとてもかなしい。宵から眠っている娘もまたさびしさを抱えこんでいるのだろう。家族とはいちばん身近にいる他者、この世にひとつの家族としてめぐりあったつかの間の愛しい他者である。たとえわが子であろうとも一個の存在としてのかなしみをまるごと受容してしまうのは、作者自身がつねに生の不安やよるべなさを宥めつつ生きているからだ。
  一面に空は剥がれて 陽のありど魂のごとくぼみてありぬ
  とろとろと崩れてくるしいわたくしを掬ひあげるのが今日の仕事らしい
  灰色の空で鎖がばらんと外れ無数の鎖がばらんとはづる
 繊細な感受性の受難のような心象風景である。崩れてゆく自分を、ばらばらに外れそうな世界の枠組みを、ふいに実感してしまう。そんなくるしい「わたくし」という存在を掬いあげるために短歌が必要だったのであろう。
  曳きて行くひとりのふねに茜空あふぎのやうに開かれて行く
 はてしない川べりをひとは「ひとりのふね」曳きつつ歩いてゆく。「あふぎのやうに」開けた茜空でなつかしいひとと出遇う。長い時間をたたえた、光と影の濃い美しい歌である。
  家族みなるすの祭日白猫が四匹来てわれを四角に囲ふ
 しなやかな猫の身体の囲う枠組み、万造寺さんの歌の文体はこの一首に現れている。定型をたおやかに伸縮するたっぷりとした空間なのである。作者は存在のはらむ遙けさや混沌を整序することなくさしだす。そこに顕在する漂い出る魂や身体の浮遊感、それらは短歌という詩型でのみ捉えうるものであろう。

歌集「歩く」の読み方
河野裕子歌集『歩く(6刷)』

書評 今野寿美

歩く(6刷)

  長くてもあと三十年しか無いよ、ああ、と君は応ふ椋の木の下
 けして短いとはいえない三十年という時間を「~しか無い」と想定して夫を促す妻の、少し陽気な手堅さがおもしろい。腹を括ったような妻のことばに、夫は素直にかつ沈思の趣で応じている。組み合わせの妙といっていいかもしれない。河野裕子と永田和宏をつい思ってしまうが、そんな短歌の特殊性を最大限に心得て作歌の推進力としてしまっている河野の方法の明確さを、『歩く』を読みながら私はつくづく思った。
 めぐりの現実から発しつつ、その歌のことばが跳躍して現実とも虚構ともつかない地点に着地するまでを、河野は心ゆくまで楽しむ人である。読者に与えられる歌のイメージは、実際の姿を濃厚にまつわらせるが、その明瞭な輪郭はほとんど河野の創作意識に由来している、とわたしは思う。それが現実以上に語り手の現実らしく見えるという構図である。
 読者は河野の語りを受けて、ひとつの家庭内で奮戦する妻や母の姿を見て(思い描いて)きた。歌のなかの現実を経て幼い子らは成長し、それぞれの道に進み、『歩く』のなかで息子には息子が生まれる。河野の歌のなかの家族について、読者はサザエさんの磯野家を知るように知っている。河野は、読者に知られている家族を前提に、創作者として家族を描く。
  賢くならんでよろしと朝のパン食ひつつあなたが私に言ふ
 こんな逆説が飛び出す朝の食卓。この場で言われた賢さについて誰も知るはずはない。読み手なりの想像が拡がる、といえばおおよそ短歌の鑑賞のうちだが、河野のここまでの歌の累積が与える奥行きは、そこに数倍もの力になっているはずである。読み手に定着する歌のなかの現実のしたたかな明確さが、河野の歌の何よりの魅力であろう。
  湯湯婆とルビを打たねば読めぬ字に婆が居るのが何となく分る
  “お帳面に書く”と子供に言ひゐるこゑがするこんな言葉がまだあつた
 河野には、やや遠い時代の生活用語に反応しての歌が多い。擬態語の個性とか口語や俗語の積極的導入などとともに、河野の用語の多彩さのなかに数えられていい点だと思う。『歩く』のなかからは、この二首が記憶に残った。薄れかかっていることばのうちでも、より生活に密着して使い込まれた普段着のことばの感触をあらためて引き出そうとしているかのように見える。そんなときには、多く今の時代のことばが選ばれていて、いとも軽快に率直なものいいであることも併せて興味深い。
 思いがけない病と向き合う日々についても語られているこの歌集。題は予後の切実な思いに由来している。最終部分に並ぶ歌々ににじむ主体の精神的強さを忘れないだろう。