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青磁社通信第十三号VOL.132006 年 2 月 発行

巻頭作品
己さらして

清水 房雄

若やぎて気取つたところで仕方なし老は老なりの有りやうのまま

何もかも懶きのみの日々また日々これが晩年といふ事にして

皆どこまで己さらして言ふものか言ひ得るものか他人事なれど

野暮くさき歌詠みちらし過ぎゆかむ妙巧短歌汪溢の世に

この町の小さき集ひにも幾十年人入れかはり歌もかはりて

なぜに斯く世をいそぐのか吾よりも二十年ばかり若い君なのに

誰からも頼りにされし宇田川君思ふよ深きかなしみの中

エッセイ
入寮選考

花山多佳子

 黒塗りの大きな門を入ると庭園がある。という夢をときどき見る。最近、ああこれは京都御所か、と思い当たった。大学の女子寮が御所の寺町御門のすぐ斜め前にあったのである。

 四十年ほど前、入寮選考のために、初めて京都に来た。大学に受かっても、寮に入れなければ京都には行かせない、と祖父母から言い渡されていたので、相当の緊張である。受験は東京で済んだが、入寮選考は父兄同伴で寮まで受けにいかなくてはならない。やむなく、父が付き添っての京都行きと相成った。
 父ははじめから機嫌がわるい。文句たらたら。京都が嫌いな上に、入寮選考というものが気に入らない。何で学生が学生を選ぶんだ、抽選すりゃいいのに、というわけである。
 当時、大学の自治、寮の自治権の一環として「入寮選考権」なるものを闘争により「勝ち取っていた」のを知るのは入ってからのちのこと。上級生が全ての選考をする。まず前もって作文を出させられる。寮ではグループ討論と個人面接がある。この三本立てで「総合点方式」という。上級生がズラリと並んで、討論を審査したり、面接したりするのだ。
 地方出身者にとって、寮に入れるかどうかは費用の面でかなり差があり、何より、まだ女子を下宿させるということが、親には抵抗がある時代だったのだろう。希望者は多い。全員は入れないのである。当然、落ちるということがある。しかし、入社試験じゃあるまいし、寮というところに入るのに、何をもって受かるのか、落ちるのか、それを分けるものは何なのか、考えてみると(考えなくとも)よくわからない。作文と討論と面接である。たとえ、それがよく出来た?として、寮となんの関係があろう。
 グループ討論の議題は「受験制度について」というのであった。どうも批判的な意見を求めてるくさいのだが、受験の方が、寮の選別より余程ましである。それをどう思って出題していたものやら。
 選考結果は貼り出されて、受かったわけだが、落ちた人はどんな気分で親と帰路についたのだろう。いわれのない劣等感を抱かされて。親だって微妙であろう。でも、選考のことで、苦情なり疑問なりが、寮に寄せられたという話は聞いたことがない。うちの父親のような嫌悪感を抱いた親がいたようには思えない。

 で、入寮したとたん、選考した人たちは一、二学年上の仲間となる。大学が始まる前に、私達は鴨川べりに寝そべって喋っていた。つまりは選考は気に入る子を物色したにすぎない。そのいいかげんさが、それはそれで、いわれのない喜びを私に与えたのだった。  入った寮は百人を収容している。二人部屋で、籤引きで部屋割をする。半年で部屋替え。会議がやたらに多い。月二回の寮会、階ごとの会議、学年ごとの会議。定例以外にも、寮は常時「闘争中」であるから、その方針のために、臨時の招集も多い。寮務委員ともなれば、全寮協議会にも出る。行事もある。大学に入ったのでなく、寮組織に入った感じである。
 当時は、大学共同体とか、寮共同体とか、共同体理念がはやっていた。「産学協同路線フンサイ」というわけで資本の介入を阻止し、完全自治をめざす。寮も、口は出せない、水道光熱費は不払い。受益者負担は資本の論理であるからして。すべてが特権的でいい気なものだけれど、それが或る種溌剌と、退廃もせず、生活上に機能していたのは、私の上の世代の五年くらいとせいぜい一学年下までの時期であろうか。
 いまも寮はあるが、入寮希望者は少ないようで、二人部屋は一人部屋になっているらしい。先日、十二月の寒波が訪れた日、寮友五人と京都御所を突っ切って、寮を見に行った。いつも開いていたドアは鍵がかかっていた。不用心なので、今は一人ずつ鍵を持っているのかもしれない。昔はなかった駐輪場がドアの横に二段できていて、自転車が並んでいる。なんであの頃、自転車を使わなかったのかしら、あったら便利だったのにねぇ、と口々に言って、立ち去ったのであった。

  口論の後 刃を入れられし果物のかたえに窓を開け放つかな
  面会謝絶・札ぶらさげて閉じこもり二人ホットケーキなど焼きぬ
  語り合いし未来のように手より落ちにおいなつかし饐えし果実は
                        『樹の下の椅子』

すぐれた自分史
総田正巳歌集『うづ潮』

書評 細井 剛

うづ潮

 「塔」に入って「二年半」、喜寿を迎えた作者が「フレッシュならざる新人」と自覚しつつ編んだ第一歌集。
 本集の主題は、大きく二つに分けられる。第一は作者の生まれ育った淡路島を主題とした作品群であり、第二は第一の主題と密接にかかわりながら展開される。家族詠である。
   渦潮見れば安らぐこころ淡路島に生れ育ちしさいはひを思ふ
   風すさぶ鳴門の海は渦潮に舟より高く白き波たつz
   鳴門岬に腰おろし居れば何に吾が時を知らざるか渦潮見つつ
 あげた作品が示すように、作者は「淡路島」で「生れ育」ったことを「さいはひ」として、誰よりも強い誇りを持っている。そしてこの誇りは、「雑然として多岐にわたる自分史」(あとがき)としての本集を支えている、強力なバックボーンになっている。だがその誇りさえ、近年は大きく傷つけられる事態が進行している。それは、「淡路島」にも「リゾート化」の波が押し寄せてきたからである。
   リゾート化進む淡路に南風吹き沖より荒き濁り波寄す
   リゾート法裏目となりし淡路島  民ら戸惑ふ過疎は広がる
   新空港の埋め立て工事に土砂採らるふるさと淡路の島も悲しも
  山のすがた崩されてゆく淡路島岬にひとり渦潮見てゐる
 「リゾート化」の波は、「淡路島」にも例外なく襲ってくる。開発という名目上の魅力的な響きとは裏腹に、島の本来の地形が破壊され、美しい自然の姿が失われてゆく。確かにこのような光景は、高度成長以降の日本の各地にみられたものであるけれど、この島に生まれ、自然の美しさを身近にみながら育ってきた者にとって、それは耐え難い光景であろう。だが、「岬にひとり」来て、「渦潮」をみつつ、自身の裡にかつての美しかった姿を蘇らせることによってしか、それに耐える術はない。そのような作者の思惟は、おのずからかつての貧しいながらも楽しかった生活、そこから発する家族の絆へと、その思いが広がってゆく。
   亡き母が八人育てし生計おもふ蝌蚪の卵の生まるる稲田に
   きぞの夢に母と携へ渡りたるもみぢの橋はいづくにありや
   はらからの八人は団栗の背比べ富めるものなく愚痴らず老いゆく
   老いゆきてはらから五人集ひ酌むものを思はぬひと日楽しき
 ここに照らしだされているのは、いつわらざる家族の姿であり、絆の強さである。そしてさらにいえば、このようにすぐれた「自分史」は、現歌壇に一石を投じるものと思われる。

歳月の果実
田中富夫歌集『曠野の柘榴』

書評 遠山 利子

曠野の柘榴

 二〇〇四年の夏、田中富夫歌集『曠野の柘榴』が出版され、かつての仲間達は、久しぶりに旧交を温めたのであった。京都の学生たちが作った「幻想派」という同人誌がその母胎である。河野裕子が、「七十年安保前夜の熱い時代、夜っぴいて議論した『幻想派』の仲間達。」と帯文を書きだし、川口紘明、永田和宏、金澤照子、清水怜一、遠山が栞文を寄せた。これも古くからの友人である木村貴嗣による表紙絵。口を開けた柘榴の絵が瑞々しい。著者は初め「柘榴が歌ふ」というタイトルを考えたようであるが、この辺りのことにもふれて、安森敏隆が『定型の曠野』と題し、懇切な解説文を添えている。出版社が青磁社というのも、感慨深いことであった。歳月は大きな果実をもたらしたのである。
 田中富夫の初期の歌は難解で、正直なところ、全くお手上げであった。断片的なイメージがふくらみかけては、あえなく空中分解してしまうことがほとんどだったから。ところが、稀に、見たこともない気球が忽然と空に浮かぶごとく、不思議な光景が現れるのであった。それは他の追随をゆるさぬほどの奇抜さであったため、誰もが彼に親しみと、ひそかな畏れを抱いたのである。
   世界は宥されてあらむに炎天の舌に巻かれて死にたる蝶々
   麦穂の尖にきぬぎぬの世界ささへられわかき婚揺さぶらる
   牛肉や馬鈴薯に青春奪はれて葱の蕊の白痴ごころよ
   きみにもう饒舌などいらぬと昏れゆくなかのあぢさゐのいろ
   ゆふぐれの出口に佇ちて青年はチェロのごとくになだめられゐつ
 青春の熱病と捨て去るか、真に無用の遊びと称えるか、人はさまざまであろう。が、時代への郷愁とともに、私は今も愛惜の念をあらたにする。
 いい歌というのは、驚きと、一瞬の沈黙を強いるものだ。またそれは、意味を超えて音楽のように美しい。
   サヨナラは最後の台詞さにあらず盃に差す雫のひかり
   かのわた雲のひろごる宙にいまいちど君を喚ぶかな 雲雀笛
   母逝きぬ往きて還らぬ文月ゆゑ耳尖らせて潮騒を聴く
   母と俺とのあはひ埋め尽くす雉子のこゑを聴いてゐるかな
 友と母への挽歌から引いた。一首目、サ行の韻が絶妙である。四首目は、「玉葉集」の「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」、また芭蕉の「ちゝはゝのしきりにこひし雉の声」などを思はせる。普遍性を備えた清新な佳品である。総数三九七首を収めるこの果実は母君の一周忌に捧げられた。
 最後に、澄明な旅情を湛える二首を挙げておきたい。
  世紀末何惜しむべきこともなくアンカラにけふも雪はふりけり
  いにしへの新羅の国の垣間見ゆふかき器の慶州あさもや。

志垣流実相観入
志垣澄幸歌集『志垣澄幸全歌集』

書評 佐藤 通雅

志垣澄幸全歌集

 志垣澄幸は、地味である。華々しさに遠い。したがって著書も、「好評販売中」にはならない。現九州勢では、一、二の実力のもちぬしだというのに、なぜもっと大きく評価されないのかと、私はひそかにくやしがってきたのである。理由は、ただひとつ、大きな賞をもらっていないためだ。賞はかくまで、評判を左右するか否かといえば、残念ながら、する場合が多い。そして賞は、実力以外に、運・不運も作用する。志垣澄幸は、すくなくてもいままでは、その後者だった。くやしいが、考えてみれば、こういう存在のしかたもかならずしもわるくない。地味で、実力のあることは、時間をかけて真の評価を生み、持続させるまたとない条件でもあるのだから。
 『志垣澄幸全歌集』には、「自筆年譜」がおさめられている。私は志垣のほとんどを歌集でしかしらないから、年譜はおおいに役だつ。はじめてわかったことも、いくつかある。一九四九年、一五歳、叔父の書棚の多くの短歌誌に興味をもち、借りてよんだという。この叔父がどういうひとかしらない。機会があれば書いてほしい。一九五六年、二二歳、『斎藤茂吉全集』をよみあさり、写生論に感動したという。ふつうは写生論をよんでも、感動まではいかない。しかし、そういわれてみれば現歌人で、実相観入を誰よりも実践しているのは志垣澄幸かもしれない。一九六二年、二八歳、個人誌「丸木舟」を創刊し、塚本邦雄から批評・はげましをなんどももらって感激したという。塚本は、若手の作品にはよく目をとおし、感想を送っては激励した。私自身もそのひとりで、よんでもらえただけでも感激ものなのに、例の独特の肉筆で、要所をえた評をなんどかもらった。
 年譜では、ついにわからないこともある。
   いくたびも幼くて死をおもひたる記憶甦りて山裾は雨
 この一首は『伏流』にあり、のちに『空壜のある風景』にも再録される。「いくたびも幼くて死をおもひたる」とは、いまだおさない日に、はやくも死の想念をもったというにほかならない。おさない日とはいつか、なぜ死を想ったのか?それがわからない。年譜にも、該当個所はどこにもない。しかし、たしかにこういう体験をもったのだ。それほど繊細で、あやうい感受性のもちぬしなら、内向的性格になるのは当然予想される。自分から積極にでるよりは、一歩も二歩も下がって、〈みる〉〈きく〉姿勢を内在させていくことも。
  猛獣に仔を喰はれたる縞馬が傍へにたちてゐしが去りたり  『桜闇』のこの一首は、そこからくる受動性を典型的にしめしている。受動は、作品をせまい世界におわらせるとはかぎらない。対象を〈みる〉〈きく〉ことによって、逆にふかい世界をとらえることできる。志垣は、それを可能にした。志垣流の実相観入だと、私はいいたい。

ここではないところ
佐々木佳容子歌集『魔女と少年 』

書評 中津 昌子

魔女と少年 

  天窓より降りくる月の黄の雫ふるき畳とわたしをぬらす
  戸を叩く雨粒の音 夏の夜の夢をふくんだ物語です
  どの窓を開けても雨は降つてゐる厨に干からびた沢庵の尻尾
 生活の場面が、ある時ふわあっと膨らんでここではない場所、時間へ繋がろうとする。冒頭の歌の「ふるき畳」というフレーズに目が止まる。月の光のあまい美しさに「わたし」が浸りきってしまわないように、ロマンチシズムに拉致されきってしまわないように、「わたし」を現実につなぎつつ、そして同時に「ふるき畳」は、歌一首の抒情にくるまれる時、時間性を際立たせられた不思議ななにものかとなる。
 自身が漂い出たがるどこかは、一本の紐のようなものによって生活感の濃い現実に繋がれ、ある時はゆるみ、ある時は引っ張られる、そのバランスの具合を魅力的だと思う。 こぼれたる油に火がつき地を走るやうに彼岸花咲くあぜ道  独特のものの捉え方や斬新な表現、ものの合わせ方といったものが多く見られる歌集だが、この一首の比喩も鮮やかだ。大きなキャンバスに描かれる朱の勢いが美しい。そしてこの勢いは、花の烈しさそしてはかなさ、また彼岸という場所、あるいはそこへ到るまでの時間の短さ等へと広く思いを誘う。
  異次元の暗闇秘めて押し入れのふすまに蓬�の山は連なる
  雨受けの甕に飼ひゐし金魚一匹 大雨の日にあふれて死にたり
  蝉の声とまる一瞬 玻璃壺の水も安静を保ちてゐたり
 境界というものが消えやすいのだろう。だが、自分の作品が自然に向いてゆく方向を「異次元」と決めてしまわない方がいいように思う。そうした意識はせっかくの「異次元」を扁平なものにしてしまう。襖に描かれた蓬�山に作者が感じ取ったものは、もっと彫り深く個性的なものだろう。水があふれれば金魚が流れ死ぬ、その当然に不気味さがにじむ二首目、あるいはどうということもない音がふと止むとき世界の静寂を感受する資質が、「異次元」でくくれないものをキャッチしていることを伝える。
 そして、次のような自然のなかで大きく歌われた作品も見逃せない。
   白鳥の舞ひあぐるとき透明の大気がゆれて春近付けり
   揺れ動く青葉にさそはれ風の中大きく投げたる麦藁帽子
   耳朶を打つ春雷の音 風にのる雨は一気に夜を抜けたり
 白鳥の歌をよむと、春が来るとはそもそもこんなにも豊かに伸びやかで、嬉しいものだったのだと思う。
 歌は方向性を必要としないものだろう。身に満ちてくるものを静かに待って、歌い続けてほしいと思う。

歌との幸せな出会い
南与三歌集『摩湯の古墳 』

書評 浦上 規一

摩湯の古墳 

 歌びとの多くが、何か不幸な出来事(戦傷病、長患い、家族の死、経済的破綻など)を機に歌を作りはじめている。その点では、この著者の場合極めて幸せな短歌との出会いであったと言えよう。髭野登喜子氏の「跋」と著者の「あとがき」によると、岸和田市郊外、摩湯の里の旧家の当主である著者は、銀行支店長を定年退職の後、妻の母のすすめで歌誌「夢殿」へ作品を送ることになった。
   古墳より出で来し銅鐸ながむれば弥生の集落の宴ぞ聞こゆ
   皇女も摘みたるならん木苺の甘き香匂う「硲の谷」に
   古墳のなだりに子らと野兎を追いたる日々の不意にたちくる
 摩湯の地名はかつて摩湯山の地から温泉が湧いたことにより、摩湯千軒とよばれた繁盛の地であった。その摩湯山古墳に立って作者は、弥生の宴・皇女、そして自らの遠い日々を想像し追憶している。銅鐸、木苺、野兎などが、それぞれ一首の中でよく働いている。
   山ざくら咲ききわまりて古墳の濠の水面に映りゆれいる
   新緑を映す水面に沼えびの透き通りつつ群がりており
   うすら氷の古墳の濠をからからと大師み堂の鈴の音わたる
 古墳の歌連作によって「夢殿賞」を受賞した作者なので、古墳の作の引用が多くなるが、それぞれ、描写句がよく効いている。
   終発の気動車ゆきて月の夜のプラットホームに白きコスモス
   わが心鎧い生き来しビルの街いちょう並木の黄の深みゆく
   羊歯の葉の色こく茂る古井戸の深みに落ちゆく熊蝉のこえ
   車椅子押す道の辺に葉牡丹の小春日あびてきららなる色
 色の歌四首(といっても、三首目はこえの歌だが)。二首目、御堂筋の公孫樹並木の黄はやや平凡だが、銀行に長年勤めた作者を思えば、「心鎧い生き来し」がよく思いを伝えている。四首目は父の車椅子を押す小春日の色。この車椅子一連八首の末尾、「父逝きていまだ寂しきこの夕べ雨に打たれて桐の花散る」は、逝、寂、夕、打、散などマイナスイメージの語が多く重なることでやや平凡になるのではなかろうか。
   お別れの刻のせまりて少年は父の顔より眼鏡はずしぬ
 は作者の「父」ではないが、下句の表現がよい。旅行詠は、誰でもとかくガイドブック的になりがちだが、この集でも、後部の旅行詠には、そういった弱さが見られる。しかし「聖堂のステンドグラスを透りくる青き光はわが顔を染む」はよい。やはり歌作りに当っては述べるより描くことが大切、先人の言ったように「一点集中印象鮮明の描写」が大事であることが分る。

夢のみのこる
越場和子歌集『枇杷の花 』

書評 飯沼 鮎子

枇杷の花 

 越場和子さんは歌集の略歴によると、大正十年生まれで昭和二十年にアララギに入会している。大正という、日本に自由主義の萌芽が見られた時代に生まれ、次第に国が暗黒の時代へと向かい、一気に泥沼の戦争へ突入した悲惨を若き日に見尽くしたのであろう。戦争によって抑圧されたものを解き放つかのように、戦後まもなく短歌を学んだようである。
   さるすべりの花夕闇に仄としてシッタンの河辺に自決せし兄
   軍事郵便すべて焼きたりし杳き日よわが青春の終りときめて
 シッタンはビルマの激戦地。作者の兄は、刻々と悪化する戦況の中で、追い詰められて自決した敗走兵の一人だったのであろうか。「夕闇に仄として」から、白い百日紅の花を想像した。兄の魂のような、白い花を思う。「シッタンの河辺」という語感の良さが上句の情景とよく引き合っている。黒木三千代さんのこの歌集の跋によれば、互いに思いあっていたという、越場さんを短歌に導いた人も、艦が撃沈されて戦死したという。二人の大切な人を戦争によって失い、戦地からの手紙を焼却することで耐えがたい悲嘆の記憶を断ち切ろうとしたのか。
   ひび割れし雲の奥処に見えし藍の生きてみずみずとあらん日もがも
   野茨の棘青々と光りつつ降るとしもなきやわらかき雨
   ことごとく花散りし芍薬しずもりて夢のみのこる庭の一叢
 どの歌にも確かな写実の眼が行き届いているが、それにも増して作者の、現実の景を越えてゆく精神の豊かさや、やわらかなロマンティシズムに惹かれるのである。ひび割れたような雲の奥に覗く藍色も、青々と光る野茨の棘も、花が散ってしずもる芍薬も、何か作者自身を思わせるように透明な存在である。とりわけ最後の、「夢のみのこる庭の一叢」は、一瞬にして青春の見果てぬ夢が蘇ったような、美しく哀切な一首である。
   鳴きながら霧の中より現れし眼の見ゆる鳥がわれの辺に寄る
   何時しかに空にひろがる木犀の芽吹き青々と窓に迫るも
 歌集によると、作者は相当視力が衰えているようである。従って、よく見て実景を歌っているようであっても、実際は、記憶の中の風景を甦らせながら歌っていることもあるのかもしれない。そのためか、視力の正常な者には見えない何かを、研ぎ澄まされた五感で掴みとっているようにも思え、それが作者の歌の魅力にも繋がっているのだろう。「鳥」の眼が見えるのは殊更言うべきことではないが、あえて「眼の見ゆる鳥」としたところに、その鳥が不思議な特別の存在に感じられるし、「木犀の芽吹き」の青も何か神聖な天上の色として迫ってくるのだ。


吉富憲治歌集『雲移りゆく 』

書評 本多 稜

雲移りゆく 

 吉富憲治は日本語の国境である。そして彼の短歌作品は、その定まることなく揺らぎ続ける国境に打ち込む楔である。吉富は一九七七年に駐在員として米国に赴任、米国永住権取得後に退社、「この地に生きる道を選んだ」という、第二歌集『雲移りゆく』を読みながら、私は吉富という国境を辿っているのだと感じた。
   顔に笑み裡に刃を潜ませよ異土に住む術切なく聞けり
   差別する側の論理は明快で「嫌なら帰れ」と切り札を出す
   この国の富者には護身貧者には糧得る手段といわむか銃は
   敗者には拍手沸かざる国に生き連夜に苦し「ユーゴ空爆」
   空爆の画像は命中場面のみ市民の死傷語らるるなく
 自分のことは自分で守る。このことは外国に住む者には身にしみて感じていなければならない鉄則である。まして米国という個人主義の国ではなおさらであろう。このような厳しい環境は、彼の作歌に大きな影響を与えている。吉富の短歌への取り組みは執念すら感じさせる。
 吉富の作品にはストレートな表現のものが多い。ありのままに無駄なく表現された作品は説得力を持ち、訴える力も強い。読者はレトリックにはぐらかされることなく、作者の立っている場所を見るだろう。米国定住者という特殊な立場からの作歌は、小手先のテクニックにこだわれば歌の焦点が曖昧になってしまうリスクを伴うが、彼の場合はほとんどが直球勝負である。表現に荒削りなところもあるがゆえに、痛々しいまでに作者の思いが伝わってくる。
   「SORRY」を多発する国せざる国せざるに住みて秋雲仰ぐ
   「被爆せしは君にあらず」と遮られ凍るがまでの孤独に真向う
  受け入れを慈愛と誇るな難民の悲惨を思え圧加えしは誰 惚けしも意識下に在る故郷か老いの日本語折り目正しき 街頭に芸見する人日ごと増えロスは夏へとアクセルを踏む 炊飯器・明太子・海苔・梅干しと載せて凱歌のごとく旅行く  吉富にとって作歌とは異国に暮らす自分のアイデンティティーを確認する作業であり、かつ自分の魂を生まれ育った日本に繋げとめておく手段でもある。短歌形式は、吉富の自己を保つための鎧として機能している。歌によって米国にありながら米国に距離を置き、日本を引き寄せる。同時に吉富は短歌を刀として、米国に暮らす日本人である作者をそこから切り離し、また作者からみた米国像を抉り出して見せる。その視点はその地に長く住む者でしか持つことができないものだ。
 歌集全体を通して、異国で生み出される日本語表現のひりひりとした緊張感が感じられ、作歌に対する吉富の厳しい姿勢が胸を打つ。日本人にとっての短歌の役割を深く考えさせられる一冊でもあった。

歩巾にかなふ
和田ナラヱ歌集『良夜 』

書評 西尾 一

良夜 

 世にさまざまの文芸がある。俳句もその一つ、ただし小説、評論、などと異なるのは私の要素が大きいこと。それは詩・短歌と比べてもより私的である。また省略の文芸と言われるように切れ字と次の文脈の間に大きな空間がある。その空間は読者に様々な想像力を要求する。そして季語を通しての共通感覚を求める。本句集はそれらに十二分の研鑚を積んだ作家による心の日記と言えるもの、たとえば、
   人に白髪冬山に湯のけむり
   みどりごの熟睡つづくや雲の峰
 の作などがその好例である。人に白髪と冬山に湯のけむりの対比は、その間の空間をすばやく掴む感性を読者も必要とされるのだ。
 人生の辛酸を積んで髪も白くなった人、それは他者でもあり、作者でもある。やや遠き山は杉や檜に覆われてこんもりと寒気の中にあり、ひとところ濛と湯煙を上げている。それは老いたる心にもほのぼのと温みを伝え、ここまで生きて来た半生をしみじみと想うのだ。この句のキーワードは冬山であり、この季語を感じえない人は正確な解釈も不可能であろう。「みどりご」の作品は先ず、みどりごの文字にある。季語「雲の峰」は盛夏のもの、赤子とかでは暑すぎる。さらに「みどり」の持つ生命力に関わる。腕のなかに熟睡する子の命への賛歌が雲の峰に象徴されるのだ。
 なお「や」の切れ字により、睡る子と雲の峰との遠近感が表されている点にも留意したい。
 さらに芭蕉の言う「取り合わせ」と共に、「黄金を打ちのべたる」作例として、
   吹き上げて渓に散りゆくさくらかな
   大霜の畑なほ照らす暁の月
   新涼のホームに手話の女学生
 など。これらは眼前の光景を衒いもなく真直に描いていて余蘊のないよろしさがある。
 この句集には辛い句もある。
 娘の臨終近づくと前書した、
   緑さす筆談の文字乱れがち
   郭公や全身を風吹き抜けて
   老鶯の存分に鳴く喪中かな
 明るい季節だけにその悲しみは一層こころに沁みるのである。悲しみを一つの姿にするのが詩歌のあり方であるがそれにしても作者の強い詩精神に感嘆するのだ。
 この句集の題名に選ばれた、
   飛石の歩巾にかなふ良夜かな
 の「歩巾にかなふ」こそ作者和田ナラヱさんの生き方であり、決して大きな声を上げずつねに身丈に添ってしっかり歩んで来た人の心の歌である。