ご注文・お問い合わせ

ご注文の書籍は送料無料にてお送りいたします。
お電話・メールでご連絡ください。

TEL:
075-705-2838
FAX:
075-705-2839

info@seijisya.com

青磁社通信第十二号VOL.122005 年 9 月 発行

巻頭作品
夏の草

安永 蕗子

ことさらに細き身ゆりて川沿ひは物につかざる夏の草伸ぶ

遠ゆくは橋こえてゆく物の音いづれ人ゆく車の響き

つらぬきて地表地中を伸びてゆく草の戦ぎはなほ花咲かぬ

燕来て瞬時虚空にとどまるは南北ふとも忘れし鳥か

歩み来て道に左折の事あれば阿蘇白川の水匂ふなり

川の面に影を落さぬ石垣の斜角六〇水清きかな

白川と言ひも捨て得ぬ名を泣けど知らぬ顔して野の鳥が啼く

エッセイ
「青磁社」にいたころ

村上 和生

 三三年が経ってしまった。阿部圭司と僕が第二次の「青磁社」を始めたのは、一九七二年の初頭であったと思う。初頭という季節の記憶は確かだったのだが、年はあれこれと年表のごときものを繰ってみてのことだ。
 そのとき僕は上京したばかりで、阿部とのつながりは二人が当時所属していた「詩人会議」という組織であった。彼はそのとき、新しい総合雑誌を立ち上げるための、かなり大きなプロジェクトに参加するはずで退職していたが、どうやらうまく行かなかったようであった。  事務所は東京・神田橋の近くに、阿部の伝手で決まった。ある国際友好団体と同居させていただくことになっていた。木造モルタル二階建て、その一階の板張りの部屋で社名を決めた。他の候補も出たはずだが覚えていない。決め方は、名前の一字をとった音に漢字をあてはめ ることになった。大阪の友人の父が「青銅社」という彫刻家集団を運営していたので、その連想から「青磁」という提案をした。
 社名を決めたとき、第一次「青磁社」のことは、少なくとも僕はまったく無知であった。後から、アララギ系の歌集を出していた版元があったことを河野裕子さんから教わった。その後の管見では一九五〇年まで活動の跡を辿ることができたが、その最初の社を担っていた方々のことは今も無知のままである。お許しを願うしかないとあらためて思う。
 第二次の「青磁社」に僕がいたのは、ほぼ三年になるのだろうか。退社は石油ショックが原因である。事務所はJR神田駅近くの北乗物町のビルに移していた。阿部と二人で看板は「詩書」をかかげ、出版のお手伝いもしつつ、外郭団体の下請けやらゴーストライターやらをして資金をためた。自主企画のためであった。そうしてある程度の余裕と、取次業界とのつながりもできはじめたころに石油ショックがあった。資金のために、僕たちはささやかながら「元請」に手を染めていた。出していた見積りの額を本当に見る間に紙だけの値段が越えていく、そんなことが続き蓄えは激減していった。阿部は三つ上であったし、僕の方が身軽であった。
 こんないきさつが「青磁社」にいたころである。
               ◎
 印象に残っていることから二つあげる。
 ひとつは、詩人会議の運営委員長だった壷井繁治さんから『回想の壷井榮』の制作依頼を受けたことだ。壷井榮という作家を知らぬ方はいないだろう。錚々たる方々が執筆されていた。その編集の過程で自分は何に向いているのか自問することがあった。中野重治の原稿であった。決して上手とは言えぬと思うが達筆な文字を阿部と二人、初見では読めなかった。解読を試みる途中で、ふとリズムを思い浮かべると解けた。自問とは詩作と仕事、であった。それまでも編集という作業は好きであったが、そのときこれが僕の仕事なのかとも思った。
 もうひとつは『森のやうに獣のやうに』だ。河野裕子さんの処女歌集である。これをお手伝いすることになったのは、在阪の友人・河野里子さんからであった。お二人の河野さんが大学の同窓であることは、角川短歌賞を受賞されたこととともに、里子さんから聞いていた。僕たちは詩については少し詳しく知ってはいても、短歌は素人だから(裕子さんもそのあたりはご存じだったと思うが)どちらにも不安があったかも知れない。第一次「青磁社」があったことを教わったのはその折である。
 今も後悔が残るのは、誤植と言えないまでも『森のやうに獣のやうに』で、一頁に複数掲載した中の一首の書き出しが一文字下がってしまったことである。いくら著者校をしていただいてはいても、編集という作業を受け持つ者のミスであった。謝るしかない僕に、裕子さんは 微笑んでくださった。
                ◎
 第二次「青磁社」はその後阿部の手で続き、僕たちが属していた「詩人会議」の版元を引き受けるまでになったが、借財をかかえて閉じた。離れて四年後、僕の唯一の市販詩集を出している。赤字であったろう。そんな重なりがあったか、いきさつには詳しくないが、バブルに影響されていたのだろうか。いずれにしろひとつの事実となってしまった。
 離れてからの僕は、ある版元に勤務し、そうして二〇年近くは多分経って、第二次「青磁社」が閉じられてからはどのくらい経っていたろうか。勤務先にか自宅にかは忘れているのだが、永田さんから電話をいただき飯田橋でお会いした。出版社を始めたい、ついては「青磁社」を名乗りたいのだが、いかがか、というお話であった。第二次を代表することはできないが、僕に異存のあろうはずがなかった。今回ご依頼を受けたこととあわせ、思う時間を持てたことに感謝し、紙幅を埋めさせていただく。
(二〇〇五・五・三一)

或る京のおなごはん
勝部ふみ句集『花遍路』

書評 門屋 文月

花遍路

 『花遍路』は、平成十四年三月に急逝された、勝部ふみさんの遺句集である。十四、五年前、暫くご一緒に勉強したことがあるが、嫋やかな「京のおなごはん」の外見に似ず、仲々積極性のある人であった。又ふみさんのお母さん思いは人並み以上であった様に思う。
  母の顔紙のごとしや花あかり
  しほしほと母の尿とる虫の声
 お母さんが子供のようになられた頃、ずっとお世話をしておられたが、たまたま妹さん宅へお母さんを預けられた時、「楽な筈なのに、心配で心配で落ち着かなくて……」と仰しゃっていたのを思い出す。一句目、「紙のごとし」は只顔が白いというだけではなく、そんな頃の、表情を失ったお母さんの顔ではないか、とふと思う。二句目、「しほしほ」「尿」「虫」の四つの「シ音」によって、文字通り「しーん」としてしまう。ふみさんの寂しげな動作が目に浮かぶ。一転、写生句の佳作を挙げてみよう。
  銀の風きて噴水のしぶきをり
  鉾建ての木組のあはひ東山
  窓あけるたび名月の位置変はる
  祇王寺やいづれは果つる草萌えて
  葉桜となりて沈めり五重塔
  上加茂の神馬の鼻の小春かな
 一句目、噴水の銀色に光るしぶきを、銀の風のせいと捉えた童心。二句目、鉾建ての終始を詠む人の多い中、その間の東山に焦点を当てたところに注目した。三句目、じっとお月見をしているのではなく、家事の合間、合間に幾度も窓を開けては名月を確かめている作者の起ち居と、時間の経過が窺われる。四句目、生あるものはいつかは死ぬ、この当り前のことを、祇王、祇女の眠る祇王寺の草萌えを見たことによって、再認識したのである。五句目、五重塔の高さが変る訳はないのだが、そこが俳人の目。茂りを増した葉桜がクローズアップされて、五重塔が消えてゆく。六句目、前句とは逆に、小さなところに着目した。「小春」といえばどことは限定出来ぬぽかぽかとした大きな空間の筈。それを「神馬の鼻」の一点に絞り、そこから小春が広がってゆくような詠みぶりである。
  隠しごとありて無月の十三夜
  晩年に欲しい暖炉と隠れ部屋
  のこる命なりたきものに花遍路
 右の三句、ふみさんには珍しい心象句である。隠しごと、隠れ部屋という措辞にふれて、容易く立ち入ってはいけない何かを感じる。題名にもなった「花遍路」の句、晩年は心穏やかに花々を巡る旅を夢見ておられたのだろう。あとがきに妹の映子さんが「句集を出すなら“花遍路”と題をつけたい、と言っていた。」と書いておられる。
 巻末に、ある俳誌に投稿されたエッセイ五篇が掲載されているが、京都の風景や行事も観光案内風でなく、御両親、御主人とのお別れも、温かな筆致で描かれている。

生きる時間の濃さ
玉置芳子歌集『ウィーンに歌ふ』

書評 小黒 世茂

ウィーンに歌ふ

  ウィーンの楽友協会ホールにて歌ふ望みが漸くかなふ
  ウィーンの街六角の木のタイル道を音やはらかに馬車の過ぎゆく
  幾たびも居場所変へしベートーヴェンの像の土台に蔦の巻きつく
 知的好奇心にときめきながら向日性に活動する玉置さんの姿が目に浮かぶ。二〇〇二年、音楽の都のウィーンにおいて「世界合唱フェスティバル」に参加したときの感動を連作したなかの三首。一首目は表題の歌だ。長年のあこがれであった伝統の舞台に、日本代表として立つことのできた喜びを素直に詠んだ。二首目はロマンあふれる街路の一風景だ。木のタイルの上を走る馬車の音に焦点をあてて、まるで映画のワンシーンのように読者を異国の旅情にさそう。三首目は居所の定まらなかったベートーヴェンと、土台に巻きついた蔦の取り合わせの妙から諧謔をひきだした。諧謔は作者の得意とするところであり、真理の観察も逃してはいない。どの歌も定型韻律をくずさずに、詩的要点がしっかりとらえられてあり、短歌への思いもなまなかではなさそうだ。
  書を読むに音たて網戸に当たりたる一匹の灯を求めてか
  陽の照れど時雨の降りて紅葉せる山にレースのカーテンを引く
 音の鋭敏な二首。一首目は網戸に当たった夜の蝉。命いっぱいの体当たりの乾いた音は激しいが切なく、それを静かに聞いている。二首目は紅葉の山に日当たり雨の降りそそぐ心象の音、カーテンのレールを滑る音がこまやかに組み合わされた。
  父からの手紙はいつも筆書きで五枚ほどにてこまごま記す
  「子ら遠く強く生きなむ古稀の春」母の色紙が我を励ます
  家近き十津川の上を大らかにとんび廻りて迎へくれたり
  古き家の神棚に祀る霊をぬく神主の声乙女のごとし
 この第二歌集は第一歌集『十津川、わがふるさと』から八年を経て出版された、四百二十二首が収められてある。
 巻末においた「父の手紙」「母の色紙」の章には、生まれ故郷の奈良県十津川村の風景描写を背景に、逝った父と老いてゆく母への慈しみを素朴に詠んだ。子への思いを父は手紙に母は俳句にしたため、子は両親の心を作品化した。故郷の自然からは大らかな性質を、父母からは豊かな才を受継いで育ってきたことがよくわかる。
 玉置さんの生きてきた時間の濃さは充分に感知できるが、その印象は実に軽やかで若々しく自在である。そこに独自のロマンが加味された魅力がある。師の安田純生の帯文によると、玉置さんは学校教育の現場で音楽を教えてきた人だという。外に向かい心を放った性質からもなるほどと思える。

風のように光のように
森川蓉子歌集『風紋』

書評 林 和子

風紋

 風紋が変化していく時、砂はどんな音をたてるのだろうか。吹く風により音もさまざまに変化するにちがいない。
 『風紋』には人工的な騒々しい音は意図的に遮断され、自然界の静かな優しい音がページを繰るごとに韻いてくる。素材の選択はさりげなくシンプルでありながら奥行きの深さを感じさせるのは作者の眼差しの深さによるものだろう。
  上の葉にたまりし雫したの葉に落ちてつぎつぎ雫する音
  素枯れたるすすきの原の日溜りに声低くしてひとつ蟋蟀
  添ひ寝する小さきものよ腸管の音うごきつつねむりに入りぬ
  昨勢の下駄うすきかな 禅和ゆく足音ひびきて冬に入るなり
  四つ角の銀座の街に雨がきて春の雫をうける傘、傘
  ものなべて音の閉ざせる夕べかな 霜ひそひそとふくらみてゐむ
 一首目は、自然界が奏でる音の楽しさをリズミカルにイメージと共に伝える。三首目、幼子に寄せる愛情表現はさまざまだが、小さな身体の中にも、ちゃんと器官が納まっていて腸管の動く音にはっと耳をすませ、愛しくてたまらない気持ちをこんな風に知的に処理する歌も珍しい。四首目は昨勢、禅和の固有名詞が有効に働き、乾いた冬の空気を分けて行く薄い下駄の音が読者の耳にも快く響いてくる。五首目、銀座四丁目あたりは春ともなれば雨の日は雨の日の心弾みがある。滴、すなわち音符であろう。下の句にはこれといった色彩があるわけではないがカラフルな傘の感じが伝わってくる。六首目、閉ざされて初めて音があったことに気づく。人は失って存在の意味を知る。霜は陰謀のようにも、希望の芽生えにもとれる。謎のある歌は魅力を孕む。
  さしのぶる君の腕に一秒の恋のありけり肩ささへられ
  手にとれば暫しきらめく夏の日のブラウスひとつ水に浸せり
  影法師出逢ひは杳し なつかしきあなたも腰の曲がる年ごろ
  橋桁にみつる潮のうごきつつ戦火に倒れし人をおもへり
  秋の陽の翳りは早し越後路の川の釣りびと間をおき並ぶ
 人をうたったどの歌も距離の取り方に工夫がある。一首目、君は親しい人でもなく、偶然出くわした人かもしれない。しかし、躊躇なく示された一瞬の動作には優しさがこもっていた。一秒の恋とは明言。三首目は優しさとペーソス。挨拶あるいは会釈した瞬間か、路上か壁などに写った影法師がありありと歳月を物語る。四首目、戦後六十年。戦火に倒れた人々を今もっておりに触れて思い出す心の内は戦争を知らない者には測り知れないものがある。潮の動きも単純に見逃せないのだ。五首目、ぽつん、ぽつんと間をあけて陣取るふるさとびとののどかな釣り風景も作者は人の保つ距離として思考する。『風紋』は一見さりげなく、噛み締めると実に味わいの深い歌集である。

平凡のおごり
栗山繁歌集『外は雨』

書評 舛井 義郎

外は雨

 最近、「塔」に所属する歌人の作品を、少々読ませて貰い、共鳴する読み振りの多いのに、驚き、楽しまさせていただいている。
 未知の歌人の栗山繁著『外は雨』に一読、惚れ込んだ。
  軽々に真理を言ってはいけないか考えていても外は雨なり
 下の句が自在に浮かびあがるまで歌にかけたエネルギーは並々ではなかろう。題名の歌だが、「塔」創刊以来の歌歴である。
  駅の裏に煉瓦造りの倉庫果てゆとりのような雨降りている
  一つ叶えば一つ差し置く思いして受話器に遠い雨を聴きおり
 こんな雨の歌に「考える」「ゆとりのような」「一つ差し置く」と「雨」にかこつけた人生観が、すっと読む胸に入り込む。著者の気質と長い職業意識とが、織り混ぜたものだろうか。
  職名入り名刺も残り少なくて春の渚の温もりにおり
 巻頭の一首で、「渚の温もり」と、なくてはならない「名刺」との関る思いの表現を深めたのが、本集の「生活を詠うを信条としてきた」(あとがき)の定年後十余年の作品群の輝きだ。
 同感する作品が余りに多く、私はよい御指導を受けて嬉しい。
  お目通し賜りたいと添え書きの私家版君の歌集が届く
 賜る人と受ける人との感慨が「私家版」に凝縮する。特に相手が親しい人か、どうかは不明だが、著者の優しさが残る。
  取り替えし軽き布団の花柄に母の眠りが安らかにある
  仏間より読経の声の聞え来て独りぼっちの距離に母居り
  耳ばかりがふしぎに重い春の午後人は来たりて母と語れリ
 母の歌は特によい。全神経が集中しているせいか。五感がつねにここに約められ、見えない距離を縮めて祈りを捧げられ、敢えて悲壮がらない。その人生観が作者信条を守り徹している。
  ひかり透く青葉の五月ヘルパーの資格取得に妻の出でゆく
  焦点を少しずらせて家族らを遠い記憶のカメラに写す
 少ない妻の歌に敬愛のこころがあり、家族へ対う姿勢には「焦点を少しずらせて」とか「遠い記憶」の言葉には脱帽する。
 勤めていた長年の苦痛に関わる世情への視野も広く、自然詠や、それをあしらった心理的描写の佳品は抄出する余裕がない。
  落葉して風に己をまかす木が寒い夕日の片隅にある
  この夏に訪ねゆきたる記念館金瓶の茂吉保渡田の文明
  弔問の長さのようにあり余る菊を集めし市長の遺影
  構造改革進まぬらしき秋口の空を群れゆく精霊トンボ
 健康な生き方の極意を感得してゆく内面生活を表現することばの豊かさに、どんな秘法があるのか、精読して見極めたい。
  平凡のおごりのような朝々に朝刊が来て牛乳も届く
  野党的なるもひ弱に見らるるはわが過ぎゆきの一齣にして

澄み切った一点
天野和子歌集『絵本を開く』

書評 早川 志織

絵本を開く

 『絵本を開く』は一読、静かな歌集である。静かであるということは決して無音ということではなく、静かだからこそささやかな音、ささやかな眼差しをすくい取ることが出来るのだと、あらためて思う。
  飛行機の音消ゆるまで耳澄ます職を退きたる我の真昼間
  教師となりし年の四月の朝の雪眼裏にあり 春の雪降る
  〈亀、元気です〉と書かれし賀状五たび来て純君にもう卒業の年
  銀杏葉を十枚ずつに束ねゆき百とう数を数えし彼の日
 作者の身辺の静かさの理由のひとつは、小学校の教師という長年勤めてきた職を辞したためである。忙しく賑やかだった毎日の後に訪れた拘束のない時間。故に、この歌集の静けさは、淡い喪失感と思い出とを伴う。歌集は退職のシーンから始まっているが、その一連の退職の歌、またその後に散在する教師生活の思い出の歌、いずれも教師として勤めてこられた作者の視点が生きていて印象深い。
  岬への旅を終えたる人々はみな菜の花の束を持ちおり
  戻り来てまた触れてみる店先のわれの好みの夏のブラウス
  幾たびも歩を緩めては葉桜の病院への道を母に付き行く
  用件は〈来なくていいから〉入院の母より日暮れに電話は届く
 退職後の作者の生活のあり様は、この歌集の主題となっている。作者は旅行を楽しまれたり、お母様の通院介助をされたりしていて、それらの場面が度々出てくるのだが、いずれも歌はあたたかく肯定的で明るい。読んだ後に私の心にも作者があとがきに記しているような「澄み切った一点」が生じ、優しい気持ちになっているのを感じるから「絵本を開く」というタイトルにこめた作者の思いは充分に成功しているのだろう。
  空バケツを庭の隅まで転がして春の疾風は過ぎてゆきたり
  散りてゆく今年の桜に語りたきことまだ少しあると思えり
  幼稚園バスに描かれし赤と黄の魚息づかせ梅雨の雨降る
  ぐんぐんとからすのえんどう茂りゆき放置自転車のハンドル覆う
 これらの歌には、自然風景を見る作者独自の視点がある。風も桜もバスの絵も雑草も、それら風景が生命感を帯びて能動的だ。私はこれらの歌に最も感応した。作者のいう「絵本」とは決して童話的ということではなく、無垢の眼をもって生活や風景とあらためて向き合うひとりの時間の有り様であり、その心が歌によって提示されているのだ。

うぶすな神のふところで
宗平慶子歌集『神は荒野に』

書評 伊吹 藍

神は荒野に

 象牙色のカバーに同色の帯をかけ、帯には淡い浅葱色の配色、その中に、序文の文字が白く浮かび上がる。表紙は茶鼠色(グレイッシュベイジュ)の上品な上製本である。『神は荒野に』を手にした時、居住まいを正して読むべき緊張を覚えましたが、ページが進むうちに、作品は、身近く親しい作者の表情を伝えてくれました。
  われに用なき世界の天気わけて明日モスクワに降る俄か雨など
  接近す接近すと気象情報に台風を待ち待ちくたびれぬ
  肺病の作家にかぶれ肺病にあこがれたりし埒もなきむかし
 そうそうと、相槌をうち、同感の思いを抱いた人は私だけではなかったろう。他にジョークに満ち、読者の心をくすぐる作品もある。
  多すぎる足を律気に動かして這へるむかでを生かしておけず
  年金の支給はじめを本人の夫よりも待つ若き銀行員
  気を入れてねらひ定めて打ちすゑぬふはふはふはと我に来し蚊を
  夏まけの解消法は数あれどとどのつまりは秋を待つべし
  シンデレラにラの音もしもなかりせばなどととりとめのなきもの思ひ
 楽しくありユニークであり新発見の世界のように私には新鮮であった。「旅行詠家族詠仕事の歌、みんな苦手」とさらりとあとがきに書いておられるのは、本当かもしれない。ご自身の感性に素直なのだろう。ものの見方、捉え方はこの人ならではの味がある。「祭礼」の抄の一首目に次のような作品がある。
  みやしろの暗きを出でて野の道をいま行かしますうぶすなの神
 この歌集のタイトルは「ペテン師づれにもてあそばるること勿れ来む世紀にも神は荒野に」からとられたようであるが、宗平慶子氏は、うぶすなの神に見守られ、純真な詩心を養ってこられたように思う。作者独自の視点が生きていて、さらに童心がのぞく、心に残っている作品を挙げてみよう。
  みなづきの空のまぶしさよろこびも人に言はねばひめごとに似る
  きららかに流るる川を越ゆるとき幼児は問ふ水の行方を
  水はみな海へ行くのと答へてより水の行方を問はずなりたり
  口紅の伸び心地よき五月来ぬ鏡に朝の若葉きらめき
  旧道の草刈られをりはかなげなるぬすびと萩の花もろともに
  穂すすきの銀の穂波にうちまじり背高泡立草つひににつぽんの黄
 秀作をここに挙げきれなかった。今後ものびのびと歌っていっていただきたいと願いつつペンを置かせていただきます。

作品の密度
古川裕夫歌集『天空の座標 』

書評 黒岩 剛仁

天空の座標 

 『天空の座標』を読んでの第一印象は、結社誌「塔」で時折拝見している古川裕夫作より、一首一首の密度が濃く感じられるな、ということだった。それは、雑誌の中で、他の会員たちの作品に混じっている数首を読む場合と、歌集単位で、ある作者の歌ばかりを読む場合との違いに過ぎないのかも知れないが。
  慎ましく古希に入る身を揺られ居り所用ある電車の片隅にして
  残りいる命の日々よ花咲きて花散りて遂に春ぞ過ぎぬる
  己見つめる事などなかりしこの一生七十を過ぎて稍我を知る
  この日遂に虫鳴き初めぬ雨晴れて照れる月夜は高き虫の音
 これらの歌を読むと、作品の密度の濃さは、作者が置かれている状況ゆえか、とも思う。即ち、作者は齢七十を越え、病を得られ、「残りいる命の日々」に思いを致しておられるようなのだ。右の二、四首目の「遂に」は、そう考えるなら、単にその季節が来たということを示すだけでなく、その季節をあと何度迎えられるだろうか、との感慨をも示しているわけである。
  絶えず鳴る音に怯えて竦みおりMRIの筒の中にて
  水飲めば胸に冷たさしみわたるわが食道は右へ歪めり
  侘助は甘く咲きいて何処かにやさしき声の鶯がおり
  診る側より診られる齢に移りつつわれは悲しき痰を喀きおり
 しかも、作者は医師である。四首目の歌にいみじくも述べられているように、いつの間にか「診られる」側に回ってしまったのである。MRIの検査を受けながら、これまでとは異なる患者の立場に身を横たえつつ、抱く不安はいかばかりのものだろうか。二、三首目の描写も、医師としての客観的な視点ゆえのものだと思う。
  明け来たる夏の青空庭の木に鳥は己を誇り囀る
  門開けば門のかたえに夕顔の花は寂しき闇に溶けいる
  川の面に稚鮎のごとき影落としヘリコプターは北へ消えたり
  コスモスが蕾と露を持ち初めぬ葉月は既に秋の気配す
 ここに描かれている動植物たちは、どれも印象深い。一首目では、作者自身が「誇り」を持って生きているがゆえに、鳥の囀りにも「誇り」を感じることができるのだろう。また、この歌集では、「寂しさ」や「寂しき」という言葉が多く使われているが、先に述べた作品の密度の濃さゆえか、あまり気にならない。二首目においても、「寂しき」は、夕顔の表情を表わすのに相応しいと思う。次の歌では、そこに存在しないはずの「稚鮎」が、川面を活き活きと泳いでいるように感じられるのが不思議だ。最後の歌でも、「蕾と露を持ち初めぬ」がとてもいい。