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青磁社通信第五号VOL.52002 年 9 月 発行

エッセイ
今様「落穂拾い」

春日 真木子

 その日、私は岩波ホールへ急いでいた。路地をぬけたところに、ゴミの集積所がある。電信柱のもとを埋めるように、新聞やダンボールが積まれている。その傍らに古書がひと重ね、紐で十文字に縛ってある。みるとルターやキルケゴールの著作集も混じっている。この持ち主は亡くなったのだろうか。角の手擦れから想像して、長年愛読していたと思われる。少し侘びしい気持で通り過ぎた。
 岩波ホールでは、「落穂拾い」を上映していた。フランス映画で、女性の監督アニエス・ヴァルダの最新作である。「拾う」という現代の社会的なテーマを追うドキュメンタリーであるが、実に見応えがあった。ドキュメンタリーは、ややもすると作文的に終る傾向があるが、これは違った。時代の一つの局面を追い、風刺に充ちた眼差しがあり、女性らしい感性をまじえた映像は芸術的であった。 「落穂拾い」といえば、まず浮かぶのはミレーの絵である。女性たちが腰を屈めて落穂を拾う図であり、映画もここから始まっている。収穫後の落穂を利用するのは、昔の人の知恵であった。
 ヨーロッパの中世から近世にかけて、収穫後の耕地の落穂を拾うことを、老人や寡婦、孤児や障害者に許し、社会の弱者を保護する手段の一つであったという。高性能の農機具で収穫する現在は、こうした風習は廃れている。しかし、拾う姿はいまも在る。
 いま、人々が拾うのは何か、その姿を求めてヴァルダ監督みずからデジタルカメラを手に各地をめぐり、現代の「落穂拾い」を求めて撮影している。
 農業国のフランスでは、まずジャガイモ。収穫し、選別して撥ねられたジャガイモをトラックが廃棄してゆく。山のように積みあげられたジャガイモに走り寄る子供たちは、イモを拾ったり投げたり遊びながら唄う。
   月曜ジャガイモ/火曜ジャガイモ
   水曜もジャガイモ/木曜ジャガイモ
 弾む唄ごえに、捨てられたジャガイモの存在が立ちあがってくるようだ。ジャガイモはフランス語でpomme de terre女性名詞である。ポム・ド・テール「地のりんご」とうつくしく呼ばれるものが、無惨に廃棄されているのだ。まさに飽食の時代である。
  金曜ジャガイモ/土曜もジャガイモ
  日曜ジャガイモグラタン
 子供たちの唄声はつづいている。この子供たちにミレーの絵を見せたら、なんと思うであろうか。落穂を拾う敬虔さや素朴さが伝わるのであろうか。
 ミレーの絵では、拾うのは女性であるが、現在は男性の落穂拾いもある。目下失業中の男たちが百キロもジャガイモを拾う。男たちは形のよいものから拾いあげる。ヴァルダは男の選びのこしたハート型のものを拾う。ジャガイモの捨てられた心を撫でるように、温かく手に包みこむ。そのヴァルダの手が大きく画面に映し出されるが、手の甲には老斑がある。手も自画像の一つ、ヴァルダはさり気なく自己の老いを見せる。この気取りのない態度に私は好感をもった。

  ある日ふと手より枯れゆくわれを見る麦秋の香に覚めしひかりに

  馬場あき子歌集『世紀』の一首が脳裡をよぎる。黄金いろの麦のそよぎにつづく人間の手が、ふと呼吸音まで伝えて命の光を思わせている。
 畑ばかりではない、取引の終った朝の市場にもゴミは溢れている。なかには野菜の入った木箱もある。ゴミの間をあさるのは浮浪者だけではない。ここ十年、ゴミしか食べていないサラリーマンが堂々と身を屈め拾っている。貧しくて拾うのではない、飽食時代の「捨てる文化」へのアンチテーゼである。パセリを食べる青年の姿もある。ビタミンCとE、ベーターカロチン、亜鉛にマグネシウムを含むと生物学を学んだという青年は詳しい。拾う姿には卑しさも惨めさもない。「捨てる文化」に対して「拾う思想」とでも言えばよいのであろうか。自分なりの簡素な生きかたを見せる。彼が郊外の地下室で、施設の外国人にボランティアで語学を教える様を、ヴァルダは追う。
 ミレーが拾う姿を芸術の素材としたように、ヴァルダもまた拾う姿を崇めている。拾うとは、忘れられた存在を立ちあがらせることか。「落穂拾い」が社会的な問題として広がり、ヴァルダの文明批評の切りくちが快かった。
 帰途、ふたたび路地を曲る。電信柱のもとに積まれた古書の束は、もうなかった。古紙として回収されたのだろうか。いや、誰かが拾っていったに違いない。誰かが、身を屈め敬虔な態度で拾った、と思いたい。そして古書の言葉が、拾い主の精神の支えとなることを信じ、私はみずからを慰めたのである。

柔らかき言葉を産まむ
斎藤典子歌集『サイレントピアノ』

書評 梅内美華子

サイレントピアノ

 わたしたちはいま、不穏で不透明な世の中の不安感のなかに生きているが、自身の生活の場からどのように世界や時代感を見て、表現することができるだろうか。凶悪な事件や戦争、正誤交じり合った情報が飛び交うとき、自身の判断や言葉を選ぶことは難しいし、慎重を要する。一九九七年から二〇〇一年までの作品が収められた本書は、「私たちはただ偶然にこの時代に在るだけだ。しかしその偶然は決して軽いものではない―」と記す作者の、時代の風を全身で感じながら、じっと見据えている、二十世紀を越える際の視線が刻印されている。少し前にあった世紀末感を、二十一世紀になって読んでみると、御破算にできない問題はつねに日常に潜んでいるものだということが切実に伝わってくる。
  名を呼べばパソコンのあひより起き上ぐる顔のしばしは魂あらず
  春の陽のときに鋭し若き死のひとつは急死ひとつは自死ぞ
  心から笑つてゐる顔を知らぬままこの十八歳を卒業させゆく
  あをいろの雨傘のなかの少年の貌緊まりゐて惑星のごとし
  教室に乙鳥過ぎむ六月の南の窓を全開にする
 不安、頽廃の様相やかすかな希望の光は、作者が勤める高校の現場から歌われた作品に、よく表れているように思われる。生徒は無気力に机に眠っている。その起きた顔には魂が抜かれたような空洞が見える。そして若い命は常に危険と弱さに翻弄され、急死や自死という、施し様のない結果として突然去ってゆく。「心から笑つてゐる顔を知らぬまま」という無力感と悔いは、生徒として以上に、他者との絶対の距離をつきつけながら別れてゆく。教育という場の崩壊はいまに始まったことではないが、教室を過ぎてゆく者たちもまた、どのように生きたらよいかわからない時代の不安のなかにいるのだ。作者はその若い命の柔らかく、はかない息づきもまた敏感に感じ取っている。青い傘の少年を惑星と譬えた感性。教室の南向きの窓を全開し、鳥と風をよぎらせようとする腕。いずれも忘れ難い作品だ。手が届きそうで届かないもの、それを見逃さず引き寄せている力が一冊を通して静かに、熱く伝わってくる。
  思想とは帽子と思ふホーチミンはホンダのオートバイに征服されき
  薄皮を重ぬるごとき歳月のひと日ひと日よおもき満月
  柔らかき言葉を産まむ黐の木のこののちの千年をわれらは知らず
 旅のうたにも過ぎた時代と現在を吹く風を見極めようとする力作が多い。知的でかつ柔軟な個々の問いが作者を揺さぶり、自らの力に撓っている木が見えてくるようだ。

ものを見る目の確かさ
中本吉昭歌集『柔らかき椅子』

書評 志垣澄幸

柔らかき椅子

 作者の十年ぶりの第三歌集である。 四十年間のサラリーマン生活を終えた作者が今までに詠みためてきた職場詠を中心に、同僚のこと、家族のことなど、日常の生活やその生活のめぐりにある自然をしっかり見つめて詠んでいる。
  四捨五入すれば切り捨てらるるかも会社の中のわれの職場は
  北窓を開けてわが聞く工場の裏の林のかなかなの声
  移籍されし職場に今日も早く来て出荷予定のロボット磨く
  ロボットを一匹二匹と数えつつトラックに積む若きらのあり
 冒頭に置かれている作品である。「あとがき」によると、総合誌に応募した一連というが、職場における作者の心境―サラリーマンの哀歓を詠んだ佳品である。とくに「ロボットがゆく」の一連は注目した。
  安売りの値札かかれる地球儀の北半球は埃かぶれり
  鉄塔に下る碍子が折々に涙光りをするときのあり
  水面に出できて呼吸する鯉の口の震えにさざ波たてり
 作者の情景描写は見事である。一首目は、「北半球は埃かぶれり」という下句に魅かれた。埃を詠んだ歌は本歌集にいくつかある。その中のひとつに〈作業場の上の小さな神棚の埃を誰も拭うこと無し〉という歌がある。これも視点がおもしろくていい歌であるが、北半球の埃の歌はそのような単なる埃の歌ではない。「北半球の埃」と表現したことで、二重の意味をもつ埃となった。そのことがこの歌のおもしろさになっているといえよう。二首目、碍子が光を返す様子を「涙光りをする」と表現した。うまいとらえ方である。三首目も浮きあがってきた鯉のしぐさを実によく観察している。同じ魚の歌〈水槽の底に沈みている鮃細かき砂を口にふふみて〉と同様に細部に目が行き届いている。
 このように対象にむける作者の目、把握力はなみなみではない。そしてそれは人に対しても同じで、その描写はしっかりしている。
  大波で入り小波で出でてゆく女子社員らの縄跳びつづく
  梅雨晴れの夕べ団地の坂登り巣へ帰りゆく父の群見ゆ
  トランペットの音を抑えて吹きている人あり夕べの寒き河原に
 女子社員が、縄跳びをしている昼休みの光景を生きいきととらえた歌。一日の仕事を終え、疲れ果てて団地に帰ってくる父親のひとむれ、規格にはまったような人間の生活がみえてくるし、音を抑えながらトランペットを吹く人の心のやさしさがみえる歌々、このように、事物や自然に対してだけでなく、人間や生活に対しても作者のものを見る目は深い。対象把握の巧みな作者だと思った。

幅の広さ
徳永滋子歌集『真の棗』

書評 黒木三千代

真の棗

  つれづれを真の棗と対きあひて閑をたのしむいよよしづけし
  現し身のこの一瞬と茶を点つる わが心音を湯のたぎつ音
  春がすみ楓のみどり 乾山の茶碗のなかの宇宙ほのぼの
 作者は茶道表千家の教授をされているという。お茶事の歌はさすがにいい。「真の棗」は利休好みの棗だということだが、最も格式の高いお棗なのだろう。私は茶道をよく知らないのだが、ひょっとしたら行や草の棗というのもあるかも知れない。「つれづれと」と言い、「閑をたのしむ」と言いながら、精神も姿勢もきりりと張った時間が流れている。読者にそう感受させるのに、「真の棗」が言葉としてもよく効いている。二首目の「この一瞬」も、お茶の真髄を表現する言葉だとおもう。心音が聞こえる程の静寂の中で、精神を集中しての真剣勝負。緊張感のある歌で、読者の方も身がひきしまる思いがする。その緊張が解かれるのが三首目。お茶碗の中の景色が駘蕩としていて、心が解き放たれる。このような歌は、やはり茶道に長い修練を重ねた人でないとうたえないところで、作者が自信を持って歌集題を『真の棗』とされたゆえんだと思う。
 こうした「雅」の歌と共に、俗世の猥雑さに注目した歌にも面白いものがある。
  世界不況どこ吹く風と浪華人うなぎの店にまむしを食らふ
  横町の奥の水掛け不動尊ちよつとをがんで浪華つ子ゆく
  声をあげラインダンスのをとめたち不穏の今を蹴上げて熱し
 一首目、現実には今はもう浪華人でも「どこ吹く風」と言っていられない情況だが、この歌は、大阪人の持っている、お上をあてにしない気概や反骨精神、また彼らの楽天主義を、下句でうまく表現し得ている。「精のつくまむしでも食うて、頑張りまひょか」というわけである。二首目は「夫婦善哉」の世界を彷彿させる。ちょっと拝むのが、いらちの大阪人らしい。次は、上品な宝塚歌劇ではなく、何となく泥くさかったOSK(大阪松竹歌劇団。松竹が手離して近鉄が経営していたと思うが先ごろ解散になった)の歌。掛け声をかけながら足をあげるラインダンスは名物だった。お茶室の閑寂の中にいる人が、同時に、こうしたいかにも大阪らしい賑やかな猥雑さに目をとめて興がっておられるところ、作者のふところの深さである。
  ははそはの母を見上ぐるみどりごはうす紅の臍のぞかせてをり
  一合の牛乳と森永ビスケット 母となりし日の夜食を想ふ
  つれづれの北の窓より覗く景目白ツツーチーチーツルッチ ッチ
 境涯的な事情を言わない歌に、作者のよさが現れている。