青磁社通信第八号 岡部桂一郎「一点鐘」特集号VOL.82003 年 6 月 発行
巻頭作品
嬰児
あちこちにぽんという音 かそけくて梅の花咲くあの世この世を
しずかにも梅のはなびら微動して白きがひらく月の下びに
音のして動くけはいは影のごときさらぎ二十日梅の花さく
雨つぶの地上に落ちて音の消ゆさびしきものか時間というは
泣き声のやみて笑顔にうつりゆく月出るときの幼子の顔
欲も得もなくてこころのほぐれゆく歯のなき嬰児 哄笑をせり
ゆく春や三角四角の花さいて幼子にいま歯の生えいずる
エッセイ
夕日は重し夕日は重し ―歌集『一点鐘』に―
その歌は一九五〇年春、上野山の貸席韻松亭の二階での泥の会の席上の詠草で読んだ。詠草は泥の会作品集として出席者十人ほどの各自十数首、ザラ紙半紙判二つ折見開きガリ版刷りだったが、岡部桂一郎の、
鳥獸の聲も絶えたる現世に山々そびゆ新しき物質として
ほか並ぶ歌に一読わたしは魂をゆさぶられる思いがした。ずしりとくる重圧を感じた。歌の本質と律動とが合致しているのだと思った。わたしの表現の印象の押し付けに終るような歌ではだめだと思われた。だが、いま、何しろ五十三年前の昔となったからつぶさに説明はしがたい。なお、そこでわたしは岡部に乞うてノートに数十首書いたそれをもらったのだった。その後六年、昭和三十一年刊の岡部の歌集『緑の墓』は校正をわたしがしたが、その歌は脳裏から次々に引出される。
總立ちになりたるときの群衆に夕日は重し夕日は重し
まさびしきヨルダン河の遠方にして光のぼれとささやきの聲
數條のレール光れる曉の薄明のなか紙ひとつとぶ
つんつんと伸びきわまれる麥の穗に近づく巨大なる醉いどれ夕日
幻燈に青く雪ふる山見えてわれに言問うかえらざる聲
獻身のごとくたつ幹をいきいきと晩夏の蟻はくだりゆきたり
煉瓦色のジャケツきこみし青年が歩道に出でて來にし無よ
歌を引出しながら、わたしはこれらの歌はその後の岡部の歌の種に違いない、違いなかったとくり返し思った。
さて、曾てわたしは岡部の歌の特色は絶唱志向に基づくと断じたことがある。対象の絶対化、絶対的感動だ。『緑の墓』二百二十六首、一首ずつ順に番号が付してある。口ずさめばわかる。一首一点屹立し、一首は他と隔絶し、享受に陶酔の充足が味わわれる。岡部は「おいしい歌」と言う、それであるが、その絶対ないし弧絶は現世超越の衝動の生ずることが知られる。岡部のたまたま洩らした言葉に「四国遍路」があり、「西方極楽浄土」があったことを思い出す。同人誌「寒暑」に書いた文には「このごろご詠歌に凝っている」とか「人はなぜ夕日を見つめるか」などという言葉があった。後者は一文の題だが、その冒頭に、晩唐李商隠の詩句が引かれた。
夕陽限り無く好し 只だ是れ黄昏に近し
だが岡部はこの夕陽を美的対象とはせず、浄土憧憬の対象としていた。わたしは岡部の引いた右の詩句をたびたび思い出すが、そのとき決まってわたしの思うのは、盛唐杜甫の詩句、
風は客衣を吹いて日杲杲 樹は離思を攪して花冥冥
白昼の旅情である。わたしはここに一瓶の酒を欲する。わたしには原始も無ければ彼岸も無い。ここにあるのみなのだが。
佇む場所
岡部桂一郎歌集『一点鐘(2刷)』
以前短歌新聞社の現代歌人叢書岡部桂一郎歌集『鳴滝』にわたしは「解説」を書いた。人の本に文章を書くのははじめてで、しかも相手が同輩友人でなく岡部桂一郎であって、はなはだ緊張した。
奥付きをみると『鳴滝』は昭和五十六年二月の刊である。それから二十余年、過ぎた。この間、岡部桂一郎は『戸塚閑吟集』一冊を編んだのみで『一点鐘』は四番目の歌集である。本当に待たれていた歌集が目の前にある。
岡部桂一郎の短歌は、むずかしい語彙や修辞はどこにもなく、シンプルで寡黙、ときに殺風景ですらある。しかし滋味は無類で、一首一首のかたわらにそれはそれは長く濃密な時間をもって、読む者を佇ませる。寡黙な存在の前で人はかえって多弁になるのか、数首の感想をつたなく述べてこの場の責を繕いたい。
3に5を足せば桂一郎9になるなあ?そんなむずかしいこと聞かれても
前後の歌をみても状況が明示されていないのでこれも好きなように読む。子供のころの記憶のひとこま、爺さんか婆さんが、なぜか唐突にこう少年に言い掛けた。当時でさえも脈絡が掴めなかったからいまとなっては尚のこと一切は謎である。
3に5を足して9になるか、ならないか。それをマトモに思考の最深部において証明しようとすると、難題だろう。「むずかしいこと聞かれても」というのはただのとまどいとは違う。また、違うと読まないと歌はおもしろくならない。少年のときびっくりして答えられなかったように、いまもって答えられない。いよいよに答えられない。人間の知恵のあさはかさを自らわらい、また愛する。技巧として問いの間に狭まる呼びかけ「桂一郎」の間合いが絶妙。「桂一郎、3に5を足せば9になるなあ」では駄目なのである。
口中に咀嚼はじまる貝柱老いたる唾液出でて働く
歯(おそらく義歯)と貝柱との格闘である。このとき歯は口中の一部品でなく、まして人間全体の一部品でなく、一切の帰属から分離独立した歯そのもののように感じられる。また貝柱の方も貝の一部でない。世の始まりから、貝柱としてむきだしに存在するそれに、これまたむきだしの歯が噛み付いて咀嚼にかかる、そういう図を思わせる。精神性とか意識とか、そういう形而上的一切が剥奪され、究極の「食う」さまが見据えられていて、すざましく、また厳粛である。
存在するものは存在するために「食う」と思ってきたが、実はそれは逆で「食う」という運動がまず生じ、その運動に付着するのが存在というものではないか。人はまず歯があって、それを支える口蓋が、頭部が、やがて手足、内臓とつくられているんでなかろうか、などとしばらく考え込む。「老いたる唾液」とわざわざことわっているけれど、むろんここには直接には老身の生理が歌われているのだけれど、たぶんそれは仮体なのだ。徹底して即物的でゆえにリアルな上にもリアルかつ抒情的。しゅわしゅわと湧き出る唾液がそれ自身生き物のようだ。
高きより朴の枯葉があらわれて肩・背・胸と触れつつ落ちぬ
ジャコメッティの人体像を連想する。
落ち葉は散ってくるもので「あらわれて」とははじめて出会った。虚空から突如前触れもなくそれは頭上に出現したのであった。朴のあの大きな葉であればこそである。しかしどんな朴の葉でもかくも劇的にあらわれるものでない。それは「あらわれる」ということばをもって世界を切断してみせた者にだけ、あらわれる。
この一枚の葉は来歴をもたない印象を強くする。芽が出、若葉となり、成長して衰え、いまここに枯れ葉となって…というふうにおもわれない。はじめから枯れ葉である。時間軸から切れてしまったモノの存在感を岡部桂一郎は一貫して追求する。そしてそれがかえって切れてしまった時間というものを鮮明に喚起しやまない。つよい造形性を感じさせ、いかにも岡部桂一郎の歌である。
『鳴滝』の「解説」に二十年前のわたしは「戦後の短歌を支えてきた中心的イデーは人間至上主義であった。…岡部桂一郎の世界はそこでは全く異端といえる。表情はむしろ無用の装飾にすぎないからだ」などと書いている。ちょっと恥ずかしい文章だが、でもじぶんの気持ちはいまも変わらないと感ずる。無用の装飾を完膚無くそぎ落とされて、するとなんとしたことか、そこにはえらくゆたかな世界が、どんな装飾よりもゆたかな存在の陰影がかくも生々しく浮かびあがるのである。