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青磁社通信第二号VOL.22002 年 2 月 発行

エッセイ
宇宙駅

中野 照子

 大津駅から国鉄に乗って逢坂山トンネルをくぐると山科駅、さらに東山トンネルを出ると京都駅に着く。多分三十分近くかかったのではなかろうか。石炭を焚いて走る機関車が、木製の箱型の客車を繋いでいた。目をつむると浮かんでくるその汽車は、客車の乗降口には柵のあるデッキがついていて、車輌は濃い茶色というより煤けた色合いであった。さながら前世紀の物体であるかのように、はるかな風景である。車内の堅い椅子に座わり、トンネルを二つくぐる間に煤煙が窓やドアの隙間から入ってくるのであろう、京都駅で下車すると、鼻の先から髪から耳の穴まで煤でまっくろになっていた。昭和二十五、六年から三十年くらいのころである。当時官庁に勤めていたわたくしは、土曜日の半どんの仕事が終わった午後は、とても貴重で、またうれしい時間であった。お花、お茶、謡曲他稽古事に身を入れたが、時には京都へ出掛けるのであった。
 母の生家があり、母方が代々暮らしてきた地である京都。わたくしたち一家が北陸の町敦賀でくらした年月のなかで、あるいは父の郷里堅田(現大津市)で生活した日々に、母が常になつかしげに話してくれた京都の町や四季の移り変りは、私のあこがれとして光彩さえ伴ってきていた。円山公園のしだれ桜、高台寺の萩、おけら詣りなどなど。しかし、何にもまして、少女の時代から十年余り、戦争が日常であった時代を経て、生活のなかで欠如してしまった文化や芸術へのあこがれは切ないくらいで、それがわたくしを京都へ駆り立てたと言える。旧臘の、原智恵子が亡くなった新聞記事は、安川加寿子とのピアノ連弾、その師のラザール・レヴーと三人の京都での演奏会のさまを鮮明に思い出させ、時代がまた時間が過ぎ去ったことを改めて思い知ったのであるが、あの日も煙煤でまっくろになって京都駅に着いたのではなかったか。
 道中すごろくの三条大橋の「上り」のように、京都駅はわたくしにとって、あこがれの地への出発点であった。通過する駅でもまして終点でもなく、そこから始まる何かを常につよく希み期待する「駅」であった。

 「ヒッチョステンショ」京都駅を母はこう呼んでいた。明治生まれの母たちが日常のなかで言う「ヒッチョステンショ」は新しがりやの京都の人々がいち早く取り込んだ英語の「ステーション」を少々訛って「ステンショ」それに従来からの「七条」を「ヒッチョ」と発音するそれに繋いだ新語であったのだろう。  明治十年、明治天皇の行幸を仰ぎ開業式を行い七条停車場がスタートした。前年に営業を開始していた停車場、塩小路大宮通りの東方八百米の地点、つまり現行の京都駅のあたりであった。初代の駅舎は赤煉瓦造りの二階建てであり写真を見ても、どっしりした風格のある洋風の建物で中央に立派な時計台がひときわ高い。大正三年に木造ルネッサンス様式に改築されているが、こちらは優美な感じがする。母たちは、初代から「ヒッチョステンショ」と呼んでいたのであろうか。やがて戦後の昭和二十五年、この駅舎は焼失してしまった。

 「烏丸七条のあたりから京都駅をみて下さい。まるでバラックです。東京や他所の友人を案内して帰途、駅まで送るたびにわたくしは恥ずかしく思います。新しい駅舎は、建物の高さに苦慮したり、周囲の景観を大切にするあまり、どっちもつかずのものにしないでほしい。現時代の、世界の京都として機能することを第一に考え、千年の都であった京都らしい雰囲気がどこかにあれば言うことはありません」平成四年の頃だったと思うが、京都駅が改築されるについての、署名入りのアンケートの用紙がたまたま送られてきた。質問に○×を記入し、意見欄に前述のようなことを書いた。京都駅は一見「バラック」と常日頃いささか悲しく感じていたからである。

 出来上った新京都駅にわたくしは驚愕した。想像してもいなかった超現代的な巨大な建築物が目前に立ちはだかる感じであった。現代の、と言うより未来駅である。そうだ、宇宙駅である。構内に入り見上げると美しい幾何学模様に組まれた骨格から抜ける空、これが千年の都であった空かと、その淡い空をいつまでも仰ぎ続けた。目まいを覚えながら胸に充ちくるものがあった。駅舎と言うにはずい分違和感のある建築物のなかを止まることのない一人一人の人間たちの小ささ。人にとって、駅とはやはり時間、人生の通過点であるに違いない。建物の北面のファサードは殆どがガラス壁である。白雲が移りゆき、太陽の反照がかがやく。まれに繊月が冴える夜があるだろうか。あるいはわたくしは、そんな夜に目をつむるのかも知れないとしきりに思うこの頃である。

『湖影』讃
藤重直彦歌集『湖影』

書評 秋葉四郎

湖影

 私は一ページ三首組の歌集が好きで愛読する茂吉や佐太郎の歌などでも、全集などの組み方ではつまらなく感じ、初版の歌集などを傍らにおいて始終読む。評論を書いたり、研究をするには一ページ八首組は便利ではあるがしみじみ歌を味わって読むには三首組の歌集はいい。適度に想像を働かせる余地を持っているし、一首一首に立ち止まりながら読むのに丁度良い形態である。実は、こんな読者の要求に応えてくれる歌集は最近のものには多くないのだが、藤重直彦氏の第一歌集『湖影』はじっくり、その世界に共感しつつ、同志に見えたような思いで、時のたつのも、酒を飲むのも忘れて読んだ。
 私の心を打って止まなかった第一は、琵琶湖、余呉湖とその辺に住む自分とを点景にして徹底して抒情していることにある。人の評価とか、現代短歌の動向とか、全く右顧左眄することなく、自身の内部要求に従って謳いあげているのは実に潔い。そうしてなった作
   漸くに雲きれて光さだまりぬ水清らなる冬のみずうみ
   相呼びて湖の面をゆくかいつぶりある処より引き返しくる
   暮るるにはまだ間のありて夕立の去りしみずうみ色あ らたまる
 など、これだけ湖を自身の世界にして詠っている短歌は過去にも現在にも他に例はあるまい。考えて見れば日本を代表する湖の辺に住み、これらの湖とともに生活できるということは歌人としてどんなに幸運なことか、この意義を作者は直観的に果しているのだろう。ここにくる鴨も雁も白鳥も、また梅雨、時雨などの四季の移りも、作者にとっては生活の一部になっている。そののっぴきならない響きがこれらの作にはこもっている。
  もう一つは、強く把握し的確に表現している歌、即ち詩の面白さがあり味わいの深い作が多くあることである。
   きらきらと釣り上げられしわかさぎのはや生ぐさき臭いを放つ
   梅雨どきの雲というとも刻々に移りつついて光る時あり
   餌をもとめ陸に上がりし白鳥の群れつついまだ土に汚れず
  上手い歌だと思う。これらにはいずれも現実・実際の一断片が鮮やかに捉えられ描写されている。そしてそれは人を感心させて止まない純粋な詩の世界だが、その上で、忽ち匂う公魚も、梅雨雲の一瞬の輝きも、土に汚れない白鳥も、暗示的であり象徴的であって、想像を発展させる。だからこれらの作の前に私などは永く永く佇むのだ。

身めぐりの豊饒
大橋智恵子歌集『こほろぎ駅』

書評 島田幸典

こほろぎ駅

  ねむりゐるは母のみ地震にかたむきし墓石起こす父と夫と われ
  脂気のみぢんもあらぬ母の墓洗ひても石洗ひても石
 お墓の歌が面白い。端的に死を表象するとともに、死者と生者の接点でもある墓。そのような境界性・二重性を帯びた場である墓に、彼我の無限の距離を認めるか、あるいは生者に会うかのような交歓を求めるかは、各人の死生観に左右されよう。大橋は後者の極に近いところで、亡き母を思い、また再会を重ねているようだ。家人の部屋を掃除するように、衣服を洗濯するように、墓を拭い磨くのであろう。墓は亡き母の、この世における新たな居場所に相違ない。
  非在と存在を分けるボーダーが連続的に捉えられるとき、存在もまた本質的に危うく、覚束ないものなのかもしれない。
   藤棚の下には立つな幻にされてしまふぞあのむらさきに
  在ることの朦朧を鋭く詩化した一首。だがこのような歌は大橋作品の例外に属す。むしろ空虚のうちに、生き生きとした実在を把握する眼差しにこそ、彼女の真骨頂は見出されるのだ。
   瓢箪にきつちり栓がしてありぬなにが逃げてはいけないのだらう
   石は切られ石切場にはどんどんとほつたらかしの拡がりてゐる
 常凡の感覚では見えぬものを見つけ、聞こえぬものを聴き取る能力。それこそは詩をものするものが仮りそめにも失ってはならない力にほかならない。そのような正統な美質は、身めぐりに注がれるとき遺憾なく発揮される。
   蜩のこゑにメツキをされさうで足早にくだる団地の坂を
   恥かくすごとくに滝の落ちくるをみあげてをりぬ口少しあけ
 メッキや恥という言葉は容易に出てくるものではない。漫然と見、聞くという以上の、対象への共感があってはじめて掴み取ることのできるイメージであり、言葉である。蜩や滝の営みにまっさらな心で向きあい、それらが差し向ける声ならぬ声を丁寧に聴き取り、言語化する。繊細な感受性と真摯な没入あっての共感なのだ。身めぐりの自然物への心寄せは、ちょうど歌人が死せる者、在らざる者に寄せるそれほどに近しく、鋭敏だ。
   大輪の白菊は今朝すきをつき奥の座敷に入つてをつた
 いささか過敏な思い入れがもたらした、一篇のユモレスクだ。大橋作品には突飛で、刺激的なモノはまったくと言ってよいほど現れない。だが我々は身辺周囲に材を求めつつ、そこから豊饒な世界を汲み取る彼女の手腕にこそ驚き、嘆息を漏らすのだ。  小自然に材をとる花鳥詠は、詩歌の正統に位置するものでありながら、現代短歌において急速に痩せ細りつつある一ジャンルである。だが紋切り型に囚われねば、まだまだ新鮮で、肥沃な可能性を秘めた領分であることを『こほろぎ駅』は静かに、しかし確かに教えてくれる。
   ひらきたる梅のかたちはみな同じ私に似てるみなに会ひたい
   あのおほきな鯉を枕にしたならばさがるであらう余分な熱が
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挽歌より挽歌を超えて
辻喜夫歌集『かげり濃く』

書評 澤辺元一

かげり濃く

 辻喜夫さんは、以前もどこかに書いた記憶があるのだが、私にとって短歌の上での先輩なのである。そして詳しくは知らぬがおそらく人生の上でも先輩、二つ三つ年上かと思う。その辻さんの第三歌集『かげり濃く』がこのほど出版された。この歌集の名前が数年前に他界された奥様に関わっているのはいまさらいうまでもないことだろう。この歌集一巻に色濃く挽歌の悲愁が沁み亘っていることは否みがたい。
  冒頭ちかく「妻病む」「妻死す」という連作がある。
   除夜の鐘闇に鳴り交う寂しさの年重ね来て今宵妻なし
   魚の目の泪の如き灯明のしずかに揺らぐ妻の法要
   夜は先ず左を下に横たわる昔はそこに妻が寝ていた
  妻の死という冷厳な事実をなんとか自分に納得させようとする作品がならぶ。人生の老境にさしかかって妻の死という不幸に出会うというのはなんとも悲しい事実なのだが、そのかなしみを詞に結実して歌い上げることが出来るというのは、ある意味では歌人のひとつの特権といえるのかもしれないと、今は思っている。悲しみの響きは声高に、隅々にまで行き渡るほど大きくていいと思う。しかしもっと厳しいのは、妻の死によって今まで堅固に構築されていると信じていた自分自身の生活が、がたがたに崩れてゆくことを眼前に見なくてはいけないことかと思う。私がここまでいうのは、実は私も思いがけず一昨年妻の死に遭ったということが関わっているからなのだが、ここでも辻さんは私の先輩ということになった次第。そのあたりの情況が辻さんの歌からまことに見事なまでにくきやかに立ち上がってくるのである。
   午前二時即席めんで酒すする化け猫ならず我にもあらず
   まっ四角風も通わぬ箱船の様な部屋だが海など見えぬ
   二百坪の邸の中に老ひとり春宵にして雨気にしおれる
   息子らに呼ばれて晩餉食べにゆく長い廊下をわが足音が
  男としてここまで言うのはなかなか辛いことだと思う。しかし人はこの難所を潜り抜けなくては次の場所にはたどりつけないのだと思う。これらの作品を書き綴る自分を、離れた場所から凝視している歌人辻喜夫の姿をこの歌集に見取ることが出来たのは、私にとって大きな喜びであった。
  挽歌にいささか執し過ぎたかもしれない。辻さんのお宅(いや、二百坪のお邸)は京都南郊の久我にある。いまも古い農村のゆかしさを遺す、歴史の薫りのゆたかな場所である。このあたりが辻さんのホームグラウンドになっている。
   鈍色の街を離りて田圃道わずかに残る草の夕焼け
   しら鳥は細く小さし河の面に影ひきながら走れど飛ばず
  言い残したのだが、辻さんはまた大きな風景を、しっかりと把握して歌う最近得難い作者であることを付け加えておく。
   大滝は霧の奥より轟けど蔵王は見えず神の如しも
   流氷の離岸近しと言う人に一歩一歩を固めしたがう