青磁社通信第四号VOL.42002 年 7 月 発行
エッセイ
熱海の信綱
「晴のうた」「褻のうた」という呼称がある。近現代歌人を思いうかべる時、おおらかで、けれんのない晴のうたを一生通してうたいつづけた歌人は稀であろう。過日、佐佐木信綱の全作品を読みなおす機会があり、信綱こそ八十二年におよぶ歌歴を晴のうたで全うした歌人であることをあらためて知った。
鳥の聲水のひびきに夜はあけて神代に似たり山中の 村
願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや
第一歌集『思草』より二首。一首目は巻頭に置かれた作で、甲府の湯村温泉を舞台にしている。不透明な今日の時代、読むとなにか元気づけられる。二首目は、悩める人の元に、自身は少なくとも明るい表情をして赴いてみるという人間信綱の骨頂を示したもの。
もう少しあげてみたい。
まかがやく豊旗雲の國さして紅の帆は大海を行く 『新月』
ゆく秋の大和の國の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 『同』
人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青 きかがやき 『常盤木』
山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地する かも 『豊旗雲』
白雲は空に浮かべり谷川の石みな石のおのづからな る 『鶯』
春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり 『山と水と』
歌人なら、晴のうたを作ることがけっこう難しいのを知っているはずである。宮中歌会始めの題詠をみても明らかであろう。
しかし、国文学者としての大きな業績の賛同の割には、信綱短歌の評価は明確でない。作品を佐佐木幸綱氏や石川不二子氏がよく読みこんでいるのは当然としても、「心の花」系歌人でも多くは信綱の特色を呑みこんでいないのではあるまいか。
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偉大なる国文学者、晴の歌人信綱の晩年の住居が、今失われようとしている。
終戦の前年、昭和十九年十二月に信綱は東京文京区の西片から熱海の西山に居を移した。来宮駅ちかくの高台で、後に「凌寒荘」と称した。文字通り、寒さを凌ぐ海と山にかこまれたあたたかい静かな場所である。昭和三十八年十二月、満九十一歳の寿をもって逝かれるまで、『萬葉集事典』『評釈萬葉集全巻』『新訓萬葉集上・下』の大著や『作歌八十二年』などのエッセイをまとめたのもこの地においてである。学問の大成を遂げ、作歌を持続し、悠々自適といった趣で年々を過ごしたのであろう。
信綱亡き後、凌寒荘は宮本三郎画伯の持家となり、画伯亡き後は空家ながらも凌寒荘として保存された。信綱の書斎はそのままの形で現存するのである。だが昨年、土地を購入する人が現われたとの情報がはいった。空家であれば購入者の出るのも当然にしろ、信綱直系のお弟子さんの残っている「心の花」の熱海歌会の同志たちが動揺したのも無理はない。ニュースを耳にし、保存できないものか、人手にわたるにしろ、別の形で信綱の居を残したいと、市に働きかけるべく周囲が署名運動をはじめたのもお分かりいただけると思う。
わたしも「心の花」熱海支部の会員として、すでに十七年を経ている。歌壇にはいくらか顔のきくこともあって、多方面の方々の署名を頂戴することができた。それらをまとめて、いずれは川口市雄市長にお届けするつもりでいる。
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熱海では毎年、信綱の誕生日の六月三日に「佐佐木信綱祭」を催している。熱海市と熱海歌人協会、「心の花」熱海支部の共催である。今年で二十八回目をむかえた。地元の方々に作品を投稿していただき、選者や講師の方が抄出し、小さな賞をさしあげるという趣向である。この頃は毎年、熱海中学の生徒たちが信綱作詞の「すずめ雀」や「夏は来ぬ」を合唱してくれて、とても楽しい。
今年は起雲閣で催され、はるばる信綱の出生地鈴鹿市の石薬師から十四名にのぼる方々も出席された。凌寒荘を今のうちに見届けておこうという気持ちもはたらいたのだろう。
熱海歌会では、川口市長に三つの提案をした。一つは、信綱をシンボルとして鈴鹿市と熱海市を点と線でむすび姉妹都市にしたいということ、二つめは、信綱作詞の「夏は来ぬ」に出てくる卯の花を熱海の通称、頼朝街道などに植えていっぱい花を咲かせること、三つめは、凌寒荘のなんらかの形の保存である。
世の中全体が不景気、かつては新婚旅行のメッカともいわれた熱海の昨今の現状も決してよいものではない。そんな状況を知った上で、あえて市長は三つの提案をじっくり受けとめていきたいと断言された。わたしは喜んで、今回の講師役として信綱の名歌を語りはじめた。
品格という力
大寺龍雄歌集『秋の水』
一匙の粥を食ぶるとひたすらに口うごかして母のひたすら
傾きてこぼれむばかりの粥の椀こころ抑へて母を見守る
汚れたる母の始末をせる妻が手を洗ふ水秋のしろがね
生きるとは汚るることか小さなる母を挟みて妻と座れり
私自身、いま老母の介護の最中である。高齢者の調子は日によって、時間によってまったく変わる。しかも「あっ」という間に老いは急激に進行してしまう。「えっ」という不思議なことが毎日起きる。仕方がないと思いつつ、これがあの母親かと思うと悲しくなることが多い。『秋の水』の作品を読みながら、ついついわが家の母と比較してしまった。身につまされるというのは、まさにこのようなことをいうのであろう。
老いてゆく両親の介護、看取りがこの歌集の縦糸のモチーフになっている。それらは切実であり、みなかなしい。ただ作者は対象を無惨に描こうとはしていない。三首目のように、老いの果てにも浄められた世界があるはずだという希いが秘められている。またなんとかしてそこに到達したいという意志が作品の背後から立ちのぼってくる。
看取りだけでなく、歌集のそこここにある浄化への憧れに気づくであろう。大寺を論じる際の大事なポイントではないだろうか。対象はたんに美しいだけであってはならない。凛としたものが内在していなければならない。それこそが作者の短歌観なのであり、短歌にかける思いなのである。
雨に煙る尾道水道見下ろして二つほど咳をしたる直哉か
雨あとの川の滾ちが湯の町の音となりきて一夜を宿る
朝ごとに如来の顔が変はるのです僧の言葉がある夜重たし
陽の差して落ち銀杏の黄金色寺に近づく径ほの湿る みないい歌であろう。独自性がある。読んでゆくと、なにか張り詰めた倫理のような力を感じてしまう。一首目。像としての志賀直哉がくっきりして見える。背の高い、毅然とした作家の相貌が伝わってくる。頽廃した、ゆるんだものには関心がない。それは文体とも関係しているだろう。ほとんどがなだらかで、順直である。
二首目のような時間の経過に関心があることも指摘していい特色だろう。アクロバティックな比喩や、句割れ・句跨がりといった手法はほとんどみられない。素材をしっかり見つめ、みずからの心を対置する。あるいはそのなかの微細な変化を観察する。エネルギーがそこに集注され、それが緊張感を生む。そして作者の世界が形成されるというわけだ。
スペースがなくなってしまったが、ユーモアに意識的であることも付け加えておきたい。といって笑いを露骨にとる作品ではない。ほのかな、微笑を誘う佳品ばかりである。
霧晴れて頂あをし神様はそんな高くにおいででしたか
繰り返し聞かせる若き薬剤師こちらが食後こちら寝る前
旅の目
落合花子歌集『花曠野』
かけがえのない風景に出会うことがある。一つひとつの旅にはそれぞれ始まりと終わりがあって、記憶に残ってゆくのはその旅の終わりに見る風景なのかもしれない。行き着いた果てに、目の前に映る風景を見ながら、人はその行程を胸のなかで振りかえる。旅の最後の風景の奥に、そこに至るまでの時間を刷りこんでゆく。その時間が長く苦しいものであったと感じるとき、たどり着いて見る風景は、自ずからかけがえのないものになっているのだと思う。『花曠野』の底をながれるものを辿ってゆくとき、そういう風景を手にした人の情感がしずかに立ちあがってくる。
遙かなる原種の花の咲き続く曠野に巨きな蟻塚並ぶ
実景を詠んだものだろう。あとがきによると、歌集名「花曠野」は「西オーストラリアで見た春の原野に私が名付けたもの」とあり、この歌もその地を題材にしているのだろう。圧倒的な自然と対峙するときの眩暈にもにも似た、当惑と陶酔。自然界に棲息する生物たちの驚異。都市に暮らす現代人にとって、大自然のただ中に我が身が放り出されるとき、目の前の光景は現実のことなのに、なにかしら超現実の空間に迷いこんでしまったような不思議な感覚が呼び覚まされることがある。野生の生命への祈りと、実感のなかにある現実を超えたような感覚の覚醒がこの歌にはあるのだと思う。
いつしかにみな夏衣ひじうらの白き肌に搏動のあり
どう思うぬるりと触覚伸びてきてパラフィン紙の振動とまる
不思議な手触りは日常生活を見つめたもののなかにも現れる。一首目の「ひじうらの白き肌」というとらえ方や、そこに搏動を見て取る繊細な感知の仕方には独特の目がある。二首目は一首全体が不思議な手触りに満ちている。「どう思う」という唐突な入り方や「ぬるりと触覚伸びてきて」というとらえどころのなさと生々とした感覚がない交ぜになった奇妙な感じはなんだろう。「パラフィン紙」という具体がこの歌の唯一の手がかりで、そこから、ぬるりとした感触や紙の振動のイメージを広げてゆき、初句の問いかけにかろうじてたどり着ける感じがある。この歌の持ち味は「どう思う」と問いかける人と、問いかけられる人とのあいだに流れあう心理の機微を楽しめることにあるのかもしれない。
さみどりの木叢の窪みに咲きつづく山紫陽花の小さき綴
川べりに繋がれしまま陽を溜むる斑に青き冬のボートは
歳月に磨り減らされし石畳ところどころに雨水を抱く
これらの歌には対象から少し離れてものを思うこころがある。それは、ひとつの旅を終えるときに抱く気持ちに似ている。これまで多くの旅を重ねてきた作者の、目の確かさがある。
鳥と花のバラード
佐藤とく子歌集『鷽と四十雀』
『鷽と四十雀』は歌集名が表す通り、鳥を題材とした作品が多い。作者が鳥を観察する眼は精緻であり、観察と通して見た鳥は、もはや鳥を超え「人」に対するようである。
軒下に憩ふ雉鳩誘ふごと電線の上に一羽鳴きつぐ
大方は北に帰りてユリカモメ街の川面に二羽残りをり
四十雀三羽きて啼く枇杷の木の葉群の中に花咲きゐたり
それぞれに一羽二羽三羽と観察されているが、それだから精緻というのではない。しかし、細かく、時間をかけて観察されていることは紛れもない。だが作者は、鳥が好きだから鳥を観察している風ではない。軒下の雉鳩を誘う電線の雉鳩、大方は帰って行ったのに、残っている二羽のユリカモメは、鳥でありながら、作者の気持ちの上ではもはや鳥ではなく、「人」である。
作者は、人や生き物への優しさと労りの心が深く、ことに、弱い者に対する視線には温かいものがある。それらを作者は次のように歌う。
片羽根に白きしるしのある雀けふも仲間と餌台に来ぬ
ゆりかもめたちは中州に増えゆくをいつも一羽のままの白 鷺
電車待つ間を土鳩の寄りくるに足傷めたる一羽もありぬ
いずれも一羽の鳥を対象としている。一首目は片羽根に白いものがある雀は、仲間外れになってはいないかと心配するのだが、今日も仲間と餌台に来たので、安堵している作中の〈私〉像が浮かぶ。二首目は、白鷺の孤独を歌っているが、単にその孤独を慰めているのではなく、白鷺の孤独を孤高という視点で捉え、いくばくかの共感の気持ちをもって歌っているように思える。三首目は傷ついた鳥(弱者)に対する労りの気持が素直に表れている。
『鷽と四十雀』はこのように鳥を題材とした作品が多いが、花や花木を題材とした作品も鳥と同じくらいに多い。
塀ごしに先づは香りの流れきてミモザの花の風に騒げり
夫への電話かけ終へ見上ぐれば高枝に三つゆりの木の花
くれなゐのバラを咲かしめ向ひ家の家族らは皆働きに出づ
これらの花の歌も、鳥の歌と同様に観察の細やかさがあり、また、日常生活の潤いと余裕を感じさせる。また三首めの歌のように、電話の内容はなんであるかといった卑近なことには触れずに、ゆりの木に花が三つ付いていたとだけ表現する作歌姿勢は、歌にふくらみと奥行きを与えている。
作者の子供らはすでに独立し、今は夫との二人暮らしであるらしい。住まいは大阪の北部で、自然がまだ豊に残っている所である。そこで鳥を観察し、花を見、家族のことを思い歌を作る。そこには豊かな時間が流れており、鳥と花のバラードと名付けたいような、温かく爽やかな歌集である。