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青磁社通信第二十八号VOL.282016 年 6 月 発行

巻頭作品
白輝

高野 公彦

遅ざくら咲きひろがりて弘前の城郭うすみどりの下萌え

生きてゆくのに必要な鈍感力たつぷり持ちて歩きスマホす

辛口のカレーを食へばスプーンの銀面(ぎんめん)よぎる奪衣婆(だつえば)の影

鮎汲みといふ語うつくし越後なる師のふるさとの川の思ほゆ

歓(くわん)尽きて酒楼を出でてあゆむときあな春月の白輝(はくき)に遇へり

道ばたに茫と茂れる風草を吹き割りてゆく風の尖(さき)見ゆ

死ぬ時に必要といふ鈍感力たくはへむため老い惚(ほう)けゆく

エッセイ
持続する今

品田 悦一

 大学に入りたてのころ、たしか大森荘蔵氏の著書だったと思うが、「本当の瞬間には何も存在しない」という意味の記述に接して唖然としたことがある。
 中学・高校のころ、私は陸上部に属して短距離走を専門にしていた。部室の棚には古い「月刊陸上競技」や「陸上競技マガジン」が積んであって、過去の大レースで有名選手たちがゴールになだれ込んだ「瞬間」の写真がいくらでも見られた。当時は全天候型トラックがまだ珍しく、計時も手動が主流だったが、大きな大会では電気計時が採用されることもあった。ある大会の百メートル走では、百分の一秒単位の計時で決着が付かず、写真判定に持ち込まれた結果、わずか千分の三秒差で優勝者が決まったという。スタートの号砲から一〇秒後にA選手がゴールラインに到達し、たった〇・〇〇三秒遅れてB選手が同じ線上を駆け抜ける――もっと僅差の場合もあるだろうし、どこまで計測しても差が認められない場合だってありえるだろう。「本当の瞬間」に限りなく近い時間差で無慈悲にも勝敗が分かれる。だからこそ、号砲が鳴った「瞬間」に飛び出そうと、選手たちはいつも神経をすり減らすのだ。幅のない時間は虚無だというなら、毎回襲ってきたあの極度の緊張も虚無だったのか。
 爾来四十年。「一瞬でも早く」というような発想とはすっぱり縁を切り、奇人変人の巣窟ともいうべき古典研究者の共同体に棲息して、百年、千年というスパンで思考することを生業としてきた。何かの拍子に昔の競技生活を思い出すと、今という時間をぎりぎりまで切り詰めようとしていたかつての自分がいじらしくも思えるし、なんだか別人の心を覗いているような気もする。もっとも、現在の私にしても電車で通勤する身の上ではあるから、短距離走者だったころのように〇・一秒単位でこそないものの、分刻みのスケジュールで日々電車を乗り継いだり、授業を行なったりはしているわけだ。つまり、今という時間を分単位の〈時刻〉として考えるよう仕向けられている。
 さて、『万葉集』から一首――

馬屯而打集越来今見鶴芳野之川乎何時将顧
                   〔万葉・巻九・一七二〇〕
(馬並めてうち群れ越え来今見つる芳野の川を何時かへり見む)

 作者は「元仁」なる人物で、僧侶とも渡来人とも言われるが、経歴は伝わらない。この歌は、大勢で馬に乗り、連れだって山道を越えて芳野川(吉野川)にたどり着いたが、やっと見られたこの美しい川を次はいつ見ることだろうか、というもの。平明な内容だが、第三句の「今」を現代語の語感で解そうとするとひどく異様だ。「いま何時?」と聞かれて「三時十二分」と答えるような感覚をそのまま持ち込むと、芳野川にたどり着いた直後に早くも立ち去ることを思ったようで、いくらなんでも気が早すぎる。この「今」はもっとゆったりした今で、到着してから立ち去るまでの時間全体を含み込んでいると考えないと、歌が成立しない。
 この歌の本文第三句は、古写本に異同がある。西本願寺本など、鎌倉時代の学僧仙覚の校訂作業を経た諸本には「今日見鶴」とあるのに対し、仙覚の手が加わらなかった伝壬生隆祐筆本・類聚古集・広瀬本などには「今見鶴」とある。他方、『万葉集』の古写本には、平安時代以降の人々の折々の判断にもとづく訓が付せられているのだが、第三句の漢字本文が「今日見鶴」の本も「今見鶴」の本も、訓はケフミツルで一致している。思うに、失われた『万葉集』原本の本文は「今見鶴」だったのだろう。それがある段階でケフミツルと訓じられ、後にはその訓に合わせて本文を「今」から「今日」へ改変する本までが現れたのだと思う。
 では、「今見鶴」と書かれていた字面を、平安以降の人たちはなぜイマミツルではなく、ケフミツルなどと訓じたのか――「今」の語感が元仁のころよりよほどせわしなくなっていたからだろう、というのが私の見立てだ。
 律令制度には、官人の業務を時間で管理するシステムが完備されていた。陰陽寮に専門の係官が置かれていて、漏刻(水時計)を用いて計時を行ない、一日を十二等分した辰時ごとに鼓を、辰時を四等分した刻時ごとに鐘を鳴らして、時刻を報ずる定めになっていた。平安時代の宮中には、夜間口頭で「丑三つ」「子四つ」などと刻時ごとに時を報ずる係が常駐し、清涼殿の殿上の小庭に置かれた「時の簡」に「時の杭」なる木釘を刺して目印としていた。漏刻による計時は定時法だから、一刻はきっかり三十分。分刻みの現代生活に比べれば一桁ゆるかったものの、律令官人の生活はすでに時刻によるスケジュール管理下にあったのである。そういう時代の貴族たちにとって、「今見つる」は、芳野川に着いた直後ではないにしても、せいぜい三十分以内くらいの幅で受け取るのが自然な表現だったのだろう。つまり、「何時かへり見む」へ続く句としてはそぐわないように感じられた。
 『日本書紀』によれば、日本で初めて漏刻が作られたのは斉明六年(六六〇)五月。作らせたのは皇太子中大兄、後の天智天皇である。明日香村の水落遺跡をその遺構と見る点で専門家らの見解は一致している。他方、元仁の歌は「人麻呂歌集」所出と注されており、天武朝の後半から持統朝の初期、ほぼ六八〇年代の作と目される。漏刻による業務管理の導入からすでに二十年以上を経過してはいたが、三十分刻みの時間感覚はまだ人々の生理に深く食い込むまでには至らなかったらしい。あるいはまた、時を告げる鼓や鐘の音は芳野までは届かなかったから、日ごろの業務から解き放たれて本来の時間感覚が息を吹き返した、ということかもしれない。
 人麻呂歌集所出歌には、ほかにも三首ばかり、「今」をかなりゆるやかに用いた作が認められる。が、その種の事例は奈良時代に入るとほとんど拾えなくなる。この国の人々が「今」をどう感じ、どう生きたかという目で振り返るとき、平城遷都は最初の大きな曲がり角だったと言えそうに思われる。


吾が待ちし秋芽子咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人に
                      〔巻十・二〇一四〕
恋しくは日長きものを今だにも乏しむべしや逢ふべき夜だに
                       〔同・二〇一七〕
白玉を纏きてそ持てる今よりは吾が玉にせむ知れる時だに
                      〔巻十一・二四四六〕

切迫感
上松美智子歌集『松』

書評 堀下 翔

松

 長谷川櫂の「古志」に創刊から関わった小寺の遺句集で、選も長谷川がなしている。

弥勒仏かの頬杖の氷りけり

 などはまさしく「古志」らしい古典的で大柄な句である。木仏だろうか、右の手で頬杖をついて瞑想をする弥勒仏、その手が氷っているのだという。いずこの寺の御仏かは分からないが、「かの」という連体詞によって、かねてよりこの弥勒仏に畏敬の念を寄せ、いま冷たくなった腕をせつなく痛々しく感じている主体の立ち位置が示される。掲句の中で「かの」が「弥勒仏」ではなく「頬杖」に掛かっていることに注目したい。ほんらいは御仏に対して全体的に向けられる筈の思いが、頬杖という部分的なものに懸けられているのである。「頬杖」というものが行為的な名詞であり、「腕」といった即物的な名詞とは異なるのも見落としてはならない。すなわちここで描かれているのは部分的・非永久的なものが氷結を通じて自己にとっての切迫感を獲得するかそけさである。『夏の果』の句の多くはこうした対象と自己との距離感が急接近する緊張を言語化したものである。
 だが一方で、抱えきれない私性を洒脱な表現であらわに述べた句が見られるのも、本句集の特色ではある。

思ひきり抱きしめ春を送りけり
ぼくたちが愛した自由青葡萄

 特筆すべきはこの系統の句のおおよそが口語まじりで書かれている点であり、端正な文語脈が基調となる句集中では異色。この言葉で書かざるを得なかった肉薄感が強い。だが注意深く読めばこれらが決して口語的叙法のみで完結しているのではないことに気が付くだろう。一句目の「けり」、二句目であれば一句に通底する定型感が、拡散しがちな口語のたづなを引いている。骨がしっかりしているのである。

真土の吐息
本田一弘歌集『磐梯』

書評 尾崎 まゆみ

磐梯

 三月十八日。東日本大震災後初めて東北新幹線に乗った。郡山駅の近くで新幹線の窓から遠くの雪化粧された磐梯山が見えた。曇り空に雪化粧の施された山は美しい。福島駅では町全体を守るように包み込んでいる雪の吾妻嶺の威厳とやさしさに圧倒されて、しばらく見入ってしまった。平成二十二年から二十六年までの歌が収められる本田さんの三冊目の歌集『磐梯』を読み終わった時にあふれた涙を思い出したからだ。

みちのくの体ぶつとく貫いてあをき脈打つ阿武隈川は
わたくしの母が死んでも吾妻嶺は月かげに濡れかがやいてゐる

 みちのくをぶっとく貫く阿武隈川。母の逝きしのちも輝く吾妻嶺。東北の地の力強さと美しさを、土地の記憶とともに言葉によって描く会津への愛にあふれた歌人は、平成二十三年三月十一日の震災に遭遇する。

うつくしき岸を持たりしみちのくのからだ津波にぶんなぐらるる
みちのくの死者死ぬなかれひとりづつわれがあなたの死をうたふまで
やはらかくたましひ蔵ふ雪を待つ真土の吐息ましろかりける
死者たちの文なり雪はゆつくりとわれとことばの間に降るべし

 震災の年の歌は、胸を突く。「津波にぶんなぐらるる」心裂かれるような現実、死者への思いは雪と重なり、たましいを鎮めようとする私と言葉の間にふる。家に帰れる人と帰れない人。生者と死者。それぞれの思いを詠むとき微妙に揺れる言葉。

はくてうのこゑわたりゆく磐梯の空より雪(よき)をたまふ我らは
しろがねの繭のひかりの雪ふれば半田の山をやさしく抱(むだ)く
「甲状腺検査」だといふ五時間目「古典」の授業に五人公欠
削られてゆく春の土あまつそらより降りたまふ雨を吸ひつつ
忘れえぬこゑみちてゐる夏のそら死者は生者を許さざりけり

 雪と真土は、死者と生者の物語。「はくてうのこゑ」渡る空から降る雪は、しろがねの繭。さまざまな現実とともに半田の山をやさしく包む。真土は守られて再び春を迎えるけれど、雨をたっぷり吸ってしまった真土は、命を育てられない痛みとともに除染のために、削られてしまう。
 一首のちからが集まり一冊の力となって、美しい山と湖つまり福島の真土と、その上に降る雪の思いを、「生者」である私にしっかりと手渡してくれる。だから震災を挟んだ五年間の心のありようを記した頁をめくり最後の歌までたどり着くと、降りしきる雪がとけて雨となりまた涙ぐんでしまうのだろう。

みなづきは水の月なり濃みどりの雨を着たまふ磐梯のやま

人間味あふれる師へのオマージュ
古玉從子評論集『木俣修 自画像百景』

書評 大熊 俊夫

木俣修 自画像百景

 本書は、木俣修の遺した、多大かつ広範に渉る著書の紹介・解説を通して、その人間像を余すなく綴った評論集である。書名に「自画像」とあるのは、人生を「自画像を描く旅」と、著者は見なしているからである。自画像すなわち「歳月に淘汰された実像」の美しさを修の著書に認めて、著者は稿を進めてゆく。また、「百景」とは例えば、白秋の歌を精確に解く修を評して「鑑賞の達人」と言い「百景の一」としていることに拠る。
 本書の前半の章題「畏敬の師白秋をみつめて」は、修が師の北原白秋の短歌を、どのように鑑賞したかの解説である。修は白秋に学び、その生涯の多くを白秋文学の解明に当ててきたので、著者が『白秋研究』(初版昭和18年八雲書林、改訂版21年文化書院)から述べるのは当然であろう。本書により白秋文学の偉大さが解明されるわけであるが、単なる丁寧な解説だけではない。一例だが、「『雀の卵』序説」の項では、白秋短歌の解説に当たり、島崎藤村の詩への傾倒、図式を交えた評、象徴へ移り行くさま、について解説するが、白秋の創作態度を踏襲した修の短歌をも紹介する、という複合的な構成になっている。
 同時代の歌人、若山牧水・斎藤茂吉・島木赤彦・中村憲吉が白秋をどのように評価していたかが、修の保管・整理していた書簡文を通して紹介されているのも本書に厚みを持たせている。
 本書の後半の章題「著作物に見る風姿」は、修その人の著書を通して修の人間像に迫る内容である。著者は、『短歌の作り方』(昭和45年明治書院)と『万葉集─時代と作品』(41年日本放送出版協会)の二著について述べる。前者は、「初心者の歌作への導入」であり、「添削の立場にある者への強い諫めと鼓舞」でもある、と著者は言い、「啓蒙」も修の「百景の一つ」としている。
また、同書は七項立てであるが、著者は第五項「短歌の伝統」について多くの頁を割いている。その中で修は、『万葉集』と近代短歌の秀歌を挙げて解説する。そして、修の結論として、現代短歌は「思想感情においては、一大飛躍を為し遂げている」が、「その用語においては、古典としての短歌に用いられているものと大差がない」と、著者は纏めている。すなわち、修は短歌の伝統性を重視している、と著者は認識しているのである。
 後者は、修の国文学者・研究者としての主張が発揮されており、また修らしい個性も見られる。例えば、山部赤人は柿本人麿と山上憶良と比べて、自己を語る歌を遺していない、歌人としての幅が狭い、と断じている。また著者は、引用歌に修の解説を載せているが、修の敬愛する斎藤茂吉の『万葉秀歌』の解説も併記しているものもある。「両者の視点・論点の対比が修の自画像の浮上に役立つ」からである、と著者は述べる。
 本書は、木俣修の業績を通して、その人間像を自在に描いた、三百頁を超える、正に大作、労作と言えよう。

定型という土台に立って
奥村晃作歌集『造りの強い傘』

書評 土岐 友浩

造りの強い傘

 二〇一二年、二〇一三年の二年間で詠んだ四五〇首を収めた著者の第十四歌集である。装幀は濱崎実幸氏。灰色がかった茶色い表紙に、細い銀箔が一直線に通って、とても美しい。

熱湯の大鍋に足折り曲げて押し込む甲羅剥ぎたる蟹を
生卵肉に掻き混ぜ紅ショウガ添えて吉野家の牛丼を食う

 一読、鍋いっぱいに収まった大きな蟹や、丼から溢れそうな牛肉のイメージがありありと脳裡に浮かばないだろうか。どちらの歌も二箇所、助詞の「を」が省略されていることに注目したい。この助詞抜きによって歌の調べがぴったり定型に収まっているのだが、この二首から感じられるのはむしろ、定型に収まりきらない、溢れ出すような韻律のエネルギーである。
 作者は喜寿を迎えたが、歌集を読むと、日々、様々な場所へ足を運んでいることに驚く。一番多いのはおそらく美術館で、

「音楽家の肖像」一点(いってん)で展覧会開けるレオナルド・ダ・ヴィンチは凄い
目玉画家ルドンの描(か)きし蜘蛛見るに目玉の顔に付く十(じゅう)の足

 このようなユーモラスな歌と出会えるのが、この歌集の大きな魅力のひとつだろう。他にも作者は横浜や江ノ島、鬼怒川、四万十川、南フランス等の地へ赴き、そして、この二年間に少なくとも二度、東北を訪ねている。歌集には「いわき市は今」と「被災地巡りバス旅行」という連作が収録されている。

土台から浮きたる家が激流にもみくちゃにされバラバラとなる

 被災地の風景を目の当たりにして、作者は「土台」「基礎」「骨組」等の素材を多く詠んでいるようだ。特に「土台」はこの歌集のキーワードで、たとえば次のような歌にも登場する。

インプラント三本植えて下の入れ歯支える土台が万全となる

 「万全となる」に、迫力がある。老いて自分の歯が弱ってしまったのを嘆くのではなく、インプラントという新しい「土台」を得たその喜びを、作者は力強く詠う。しっかりした土台。それは作者の定型遵守の意識とも地続きなのだろう。

樹齢千年、大島桜は花期過ぎて葉桜なれど振り仰ぎ見る
ホームランそれも場外ホームランのようなドデカイ歌が詠みたい

 結論を急ぐ必要はないのかもしれないが、一首目の、大地に深く根を下ろした桜の樹を仰ぎ見る心と、二首目のドデカイ歌が詠みたいという願いは同じものだと思う。短歌定型という土台にしっかりと立って、まっすぐに詠うことを信条とする、そのようなドデカイ歌人の姿が、歌集を通じて見えてくる。

折り畳み傘で造りの強い傘拡げて差して吹雪く道を行く

翼あるもの
川口真理句集『双眸』

書評 対中 いずみ

双眸

 田中裕明が主宰する俳誌「ゆう」において川口真理さんは注目の新進作家であった。田中裕明は二〇一四年歳晩に四十五歳の若さで逝ったが、その最も期待される弟子の一人であった。

双眸の黒々として夜の秋
夏めくや卓上にある漂流記
卯の花腐しNew York写真集

 これらは「ゆう」誌に鮮やかに新風を吹き込んだ作品群で、十数年を経てもその詩情は褪せない。
 このたびの句集『双眸』では、鳥の句にことに惹かれた。

焚火消え乾ききつたる翼かな
鳥たちのあまたの背中春の雪
ポインセチアひつそりとして鳥の息
しぐるるや身の芯にある鳥の性

 人は天界では自由自在な姿になるという。人の姿をとるほかは、それぞれの心性に適った動物の姿を借りることもあるという。魚だったり獅子だったり。真理さんは迷いなく鳥になる方だろう。雀などの小鳥ではなく、鸛や白鳥などの大柄な鳥。大きな翼を揺らして天空を翔ける鳥に、本来ならなる人が、いまは二本足で立ち、働いたり料理を作ったりしている。そして、その地上世界で詩をつくる。

骨肉の透きてゆきたる十二月
地につかぬ花びら十二月十四日

 一句目は「夫」と前書きがある。「骨肉」とは親子などの血族の意でもあるが、ここでは文字通り骨であり肉であろう。ある日ある時刻をもって肉体はこの世から滅するが、霊体はしばらくは地上を漂う。それもやがて遠く薄れてゆく。その消息を感じている時間の哀切はいかばかりか。二句目は「夫の忌日」と前書きがある。「地」からは「天」を思わずにはいられない。天から降り、永遠に地には着くことのない花びら。透けていった人の思いの結晶のような花びらだ。

滂沱するところが母国去年今年

 おそらくは東日本大震災を詠まれた句だろう。「滂沱」は涙がとめどなく流れ出るさまであるが、同時に雨のはげしく降るさまをも言う。被災地のみならず日本中が傷つき、たくさんの涙が流れた。「母国」という言葉が、詩句としてこれほど嵌り、かつこれほどいじらしく感じられるとは。

少しだけ星に近づく天瓜粉
セーターの軋みて銀河ひろごりぬ
虹のあとあはき交はりのこりけり

 俳句はささやかな日々の営みを詠むことが多いが、真理さんは翼あるものの心で俳句を詠む。『双眸』の基調音のようなこれらの句は、その双翼の羽音のようだ。

「まつさらな明日」は誰にも
尾崎加代子歌集『樫の木小書』

書評 遠山 利子

樫の木小書

遠住める子らを思へば親われは野の涯に立つ一本の樫
おすそ分けするのは元気と書き添へて七十歳が炊くいかなご送る
まだ暗き朝餉の卓の電灯の切れる唐突さに一生終るべし
さみしさの巡りくる日は読み返す三十年来『少女パレアナ』

 「塔」に所属する尾崎加代子の第三歌集。
 一首目は歌集のタイトルになった歌。樫の木は常緑の広葉高木。その名の通り堅く耐久性がある。木陰に鳥や小動物を憩わせる大らかな母性のイメージ。作者は今遠く離れ住む子らを思い、子育てに奮闘したかつての日日を懐かしんでいるのか。いや、寂しさを抑えて毅然と老いに向かう覚悟であろう。
 阪神・淡路大震災から二十年が過ぎた。「震災は私にひとつの気づきをもたらしてくれました。私という存在は野の花や空の鳥と変らず自然界の調和のうちにある一つの現象に過ぎないということ(中略)よきこと、そうでないこともありのままを受け入れるということを。」「あとがき」のこの言葉に、人知れず耐えた心の傷みと時間の重さを感じる。愛読書『少女パレアナ』を傍らに。柔らかな心を持ち困難に出会ってもそれをバネにして強く生きる主人公パレアナ。著者にも重なるものがあるようだ。内外への旅行詠、孫娘との交流も瑞々しい。「まつさらな明日」は誰にもくると著者は皆に呼びかけている。

日盛りの山路をゆけば一条の光となりて蜥蜴が過ぎる
手の爪にくれなゐのこるミイラあり旅順大谷コレクション
乗り合す人に声かけ海上におほきくくつきりかかる虹見つ
ひとつしかないねもつとあるといい幼なは梅雨の月を見ていふ
三歳の文香にまつさらな明日がくる思へば私にだつてまつさら

すっきりと端正
高島志保美歌集『林の風に』

書評 遠山 利子

林の風に

聖書(みふみ)をば文語訳にて読み進む響きは深き古き言の葉
旅に出で林の風に吹かれたし木の葉のあおに染まりてゆかな
仲麻呂の仰ぎし月はこの夜も西安城門遥かに昇りぬ

 「未来」に所属する高島志保美の第一歌集。緑の風を感じさせる装幀。米田律子は序文で、著者が九歳の頃「小倉百人一首」に親しんだことに触れ「遠く深い歌の縁」を述べている。また著者は短歌の定型・韻律の「制限の中でこそ私は自身を自由に羽ばたかせ、思索し、表現でき得る」と「あとがき」に記す。古語の魅力に惹かれているのが一首目からも伺える。二首目は歌集の題名になった作。清新で瑞々しい。三首目は阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」を踏まえて、作者にも感慨深いものがあったことだろう。

震災に逝きし面影唐突に浮かび来たりぬ雑踏を歩めば
言葉にはならぬ思いもありぬべし被災の人の方言慎まし

 一首目は阪神・淡路大震災、二首目は東日本大震災に関る。「唐突に浮かぶ面影」に今も問われる思いがするのだ。「言葉にはならぬ思い」は同じ傷みをもつ者の実感である。

「お母さん」吾を呼ぶ声のいつよりか低く間遠になるをさびしむ
語気荒く吾に抗いて立ちし子のハムスターに向かう声音やさしき
憚らず憎しみ叫ぶ人のため尚許し給えと祈れずに吾在り
その角をもひとつ曲がれば「油屋」がありそうな路地見つけしは秘す

 一、二首目は反抗期の子に戸惑う母の心情。歌があってこそ甦る懐かしい場面。三首目は内省的な歌。全体の印象はすっきりと端正な詠み口のものが多い。最後に挙げた一首には不可思議なるものへの揺らぎが見える。今後の展開の予兆であろうか。

切迫感
小寺敬子句集『夏の果』

書評 堀下 翔

夏の果

 長谷川櫂の「古志」に創刊から関わった小寺の遺句集で、選も長谷川がなしている。

弥勒仏かの頬杖の氷りけり

 などはまさしく「古志」らしい古典的で大柄な句である。木仏だろうか、右の手で頬杖をついて瞑想をする弥勒仏、その手が氷っているのだという。いずこの寺の御仏かは分からないが、「かの」という連体詞によって、かねてよりこの弥勒仏に畏敬の念を寄せ、いま冷たくなった腕をせつなく痛々しく感じている主体の立ち位置が示される。掲句の中で「かの」が「弥勒仏」ではなく「頬杖」に掛かっていることに注目したい。ほんらいは御仏に対して全体的に向けられる筈の思いが、頬杖という部分的なものに懸けられているのである。「頬杖」というものが行為的な名詞であり、「腕」といった即物的な名詞とは異なるのも見落としてはならない。すなわちここで描かれているのは部分的・非永久的なものが氷結を通じて自己にとっての切迫感を獲得するかそけさである。『夏の果』の句の多くはこうした対象と自己との距離感が急接近する緊張を言語化したものである。
 だが一方で、抱えきれない私性を洒脱な表現であらわに述べた句が見られるのも、本句集の特色ではある。

思ひきり抱きしめ春を送りけり
ぼくたちが愛した自由青葡萄

 特筆すべきはこの系統の句のおおよそが口語まじりで書かれている点であり、端正な文語脈が基調となる句集中では異色。この言葉で書かざるを得なかった肉薄感が強い。だが注意深く読めばこれらが決して口語的叙法のみで完結しているのではないことに気が付くだろう。一句目の「けり」、二句目であれば一句に通底する定型感が、拡散しがちな口語のたづなを引いている。骨がしっかりしているのである。

イメージの引力
有本銀河句集『秋の虹』

書評 堀下 翔

秋の虹

 有本銀河の遺句集『秋の虹』を読んでいるうち、この作者の選び取るモチーフが、たとえば寺社であったり城郭であったりといった、蒼然としたものに傾いていることに気が付いた。ここに収められている句は、生前十五年にわたって在籍した「白露」「椎の実」掲載句から、没後に遺族が採集したものであるから、編者のまなざしが介在している可能性もあるわけだが、時期を問わず満遍なく現われているし、何よりそういった古典の風景に心を寄せる句は句集の中でもことに強い妙味を発しているので、けだし銀河もそれを本分と心得ていたのではないか。

落慶や僧の真顔に萩こぼれ

 銀河の魅力は、近似したイメージどうしが相互にじりじりと距離をはかり合う引力にある。掲句、「落慶」というめでたく仰々しい名詞が、無造作に「や」で放り出され、その大味の響きに耳を傾けておれば、続いて「僧」という「落慶」にごく近しい語が現われる。落慶にあたってなにゆえ僧が真顔なのか分からないので不気味である。ややもすれば過剰になりそうな名詞の展開がもたらす厚塗りの風景に味がある。下五の「萩こぼれ」というのも、湧くような花の様子に慶事を象徴させているような、かつ一方では、真新しい仏閣にすでにして剥落を予感しているような、複雑な情感を呈しており、やはり分厚い。このごつごつとした構造を成立させているのが「に」だ。真顔によってという理由づけか、真顔に向かってという方向の提示かは判然とせず、その曖昧性によって、各要素を有機的に取り持っている。

往還に春呼ぶ声か機の音
絵筆もちたし木蓮の二月堂

 などもやはり手ごたえの強い名詞を細部によってまろやかに仕立てた句。巧みな言葉遣いが風景の深みを見せる。

いつの間に雪
前田充歌集『木蓮の家』

書評 西村 美佐子

木蓮の家

 一編の映画を見終わった後のようだった。一人の女性の半生が、淡々としたカメラワークと穏やかな語りで展開される。身巡りに注がれる著者のまなざしはやわらかい。声高な意識に素材をデフォルメするようなことはなく、かといって従順なだけでもない。

ふくらみし木蓮の芽はそれぞれに溶けゆく雪のきらめきを持つ

 「それぞれに」という丁寧な視線に心惹かれる。存在としての木蓮への敬意がこのように細部へと視線を届かせるのだろう。モチーフへの適度な接近はすなわち、世界のありようへの謙虚な姿勢の現れでもあるだろう。短歌という詩型にふさわしいのは、こうした節度ある自意識なのかもしれない。

いつの間に雪降り出でし正月のひとりの刻をマニキュアを塗る
水を撒き肥料をやりて育てたるコスモスはわが胸乳に届く

 マニキュアあるいは胸乳という言葉のもつ華やぎにはっとする。それは、『木蓮の家』という一冊のストーリーのなかに置くからこその華やぎである。確実な歳月の隙間に、ふいにときめきが顔を出す。集中に数は少ないが、モチーフとして女性性を扱った作品は初々しく、清潔なエロスが漂う。

夕暮れて帰り来たれば居間にひとり夫は将棋の駒並べをり
も(※漢字、手偏に宛)ぎたてのトマトの匂ひさせながら少し猫背の夫帰り来る

 まなざしが夫へと向かうとき、それはより存在の深部へと届くようだ。モノクロの日本映画のワンシーンのような佇まいがなんともいえず味わい深い。定型のレンズを覗く作者の気配がもっとも鮮明に見えてくるのも、夫をモチーフとした作品群である。

ゆらとゆらゆらと
豊島ゆきこ歌集『冬の葡萄』

書評 西村 美佐子

冬の葡萄

部屋すみに固定電話はひつそりと梅雨の晴れ間の葉洩れ陽を浴む

 固定電話ということばが逆に、携帯電話の普及率の凄まじさを実感させる。少し前の時代ならば「電話」で通用したはずである。モノの名の変化は歌そのものを変貌させる。「電話」と「固定電話」では視覚的佇まいの差異はもちろんのこと、内包する世界観がまったく違うだろう。スタンダードな手法の作品ながら、スマホを素材とするよりもはるかに現在性を感じさせる一首である。

「ご主人に尽くした手ですね」言はれたり皺みて乾くちひさなこの手

 「ちひさなこの手」という結句の認識に、天真爛漫な自己肯定がみえて楽しい。それは、この一冊に通底する楽しさである。「ちひさな」というとき無意識裡に比較する手の存在がある。それはおそらく自分よりも大きく逞しい手であり、その比較において「ちひさな」は健気な女性性の象徴ともなるだろう。作者の意図とは別な問題だろうが、少しでも気を許せば言葉はすぐに、自己陶酔の甘さに定型を満たす。

とろりんと瞼は降りて熱のある子はほつつりとぶだう食みをり

 とろりん、ほつつり、というオノマトピアと、さらに「ぶだう」という旧かな表記のもつ気怠さが加わり、歌そのものが熱を帯びている。擬態語擬音語の作品は集中に多くあるが、何れも完成度高く仕上がっている。「うす衣(ぎぬ)を着しひとゆらとゆらゆらと泳げる産科待合室の夏」や「をととひもきのふも泣いた芽生ちやんがけふはふはつと保母さんの胸に」など、ひらがな表記が美しい。

季節に寄り添いつつ
長谷川櫂句集『吉野』

書評 宇田川 寛之

吉野

 帯の表に〈この宿の花の朝寝を忘れめや〉、裏には〈そののちの我らはしらず桜かな〉と一句のみが三行で記される。背に「宿を惜しむ句集」とあるように、「伊豆山、蓬莱」「吉野山、櫻花壇」の「二つの宿の思ひ出に」としてまとめた句集であるという。漫然とまとめた一冊でなく、ある方向性、目的意識にそっての編集であり、文庫本に一頁四句を収録する。
 「蓬莱」「櫻花壇」の二つの章に分け、それぞれ「一」から「七」という一見そっけなく構成されている。既刊の『富士』『唐津』『松島』から再録された作品が多く、新作はそれぞれの冒頭のふたつの連作(とあえて言う)のみ。「蓬莱」「櫻花壇」はいずれも今はなき旅館。伊豆山、吉野山の自然に包まれた旅館に著者は折にふれて訪れ、そこでの思いを俳句として残した。時には執筆のために旅館に籠り、時には句友たちとの吟行の際に訪れた。一冊には十年ほどの歳月がゆるやかに流れている。淡々とした詠みぶりに、熟練のわざを感じることしばしばである。
 まず「蓬莱」の章から抄出する。季節を問わず訪れたことが作品から分かるが、なかでも春と夏の句が印象的。

行く雲を眺めて籐の椅子にあり
菖蒲湯の波にはりつく菖蒲かな
水貝に溶けつつうごく氷かな
蓬莱の山揺るがせて蕨出づ
朝風呂やここに春立つ桶の音

 その地の住人としてではなく、去ること前提の滞在者としての視線が垣間見える。しかし単なる旅の俳句で終らない。旅館をひとつの拠点に置くことで、せわしさが消え、ゆったりとした時間が流れる。そこに作品としての奥行きがもたらされる。
 次に「櫻花壇」の章からの抄出。吉野山の旅館なので必然なのだろうが、春の作品が圧倒的に多い。巻末の季語索引で確認するまでもなく、「桜」「花」の句が目立つ。

我もまた花の絵巻のただなかに
まぼろしの桜のもとに旅寝かな
花の上に浮ぶや花の吉野山
ゆきゆきて桜の奥も桜かな
散りはてて三千世界花の塵

 捉え方はどこまでも大らかであり、「蓬莱」の章に比べて匿名性が濃厚であるように思えた。
 『吉野』巻頭の〈蓬莱や夏は大きな濤の音〉を読み、著者の第一句集『古志』の〈冬深し柱の中の濤の音〉を思い出した。連綿と著者の俳句は続いている。作品に新奇な視点は少なく、奇抜さもない。著者の作品は総じておとなしい。しかし、季節に寄り添いつつ、しずかに対象と対峙する姿勢が心地良く感じられる句集だ。

最後の編集
小高賢
伊藤一彦歌集『シリーズ牧水賞の歌人たちvol.5小高賢(2刷)』

書評 大井 学

シリーズ牧水賞の歌人たちvol.5小高賢(2刷)

 「牧水賞」受賞者の大半が、今も壮健で創作を続けている中、小高賢が二人目の物故者になったことが改めて悔しい。『シリーズ牧水賞の歌人たちVol.5 小高賢』を読み直してみると、短歌作者として小高賢は、編集者としての鷲尾賢也と、やはり表裏一体であり、分離不可能だったことがわかる。二つの名前を使うことすら、本質的には不要だったかもしれない。

編集者(エディター)よりわれに還りて父となる夕べの道をゆく迷い猫
いいかえす気力も萎えて企画ひとつ曝されしまま会議おわりぬ
出張のいとまなれども眼は快楽(けらく) 菜の花萌ゆるそらみつやまと
ボロボロの白骨これが夜を徹し社の行く末を論じたる骨
居直りをきみは厭えど組織では居直る覚悟なければ負ける
職棄つるすなわち職に棄てらるる切刃のごとき風はせめ来ぬ

 本書に収載されている日高堯子による「小高賢代表歌三〇〇首」には、こうした仕事の場面の歌が多くある。多くの仕事がルーティン化し、「わたしでなければできない仕事」が少なくなった現代において、〈職業人としてのわれ〉を前面に押し出して歌われたこれらの作品は、今の若い読者にはどのように読まれるだろう。近代短歌の末裔、あるいはこれも一つのロールプレイか。一首目「われに還りて」と言っているものの、やはり意識の中では仕事が継続しているだろう。四首目には「経営企画室長。友人の最後の職責である」という詞書があり、最後の歌には「編集者生活を終えた(二〇〇三年二月)」と記される。編集者、すなわち社会に関わる「公人」としての〈われ〉を隠すことなく晒し、晒すことでまた職業人としてのありかたとは異なる〈われ〉を、社会に対して開いている。すなわち、編集者鷲尾賢也の内面を歌人小高賢が書くことで、二重に社会と関わっているのだ。
 おそらくは、こうした表裏のない〈われ〉をみずからの責任において引き受け、公人・私人とは分離できない自分であるためにこそ、鷲尾賢也は小高賢を必要としたのだろう。

僕はやはり歴史に興味がある。だから、例えば、戦後なら戦後、あるいは、敗戦なら敗戦で、なぜこうなった、なぜこういう文学になったのか、なぜこういう短歌になったのかということを、もう少し流れとして位置付けたいという気持ちがあります。

 伊藤一彦との対談における小高賢の発言である。小高の希望は結局叶うことがなかった。人がどういき、どう表現するのかを追求した編集者=歌人として、自らを語ったこの本が、人生の最後の「編集」となったのである。

雨音を胸に聞く夜
田崎瑠実子歌集『ゴドーを待って』

書評 寒野 紗也

ゴドーを待って

つり革の占有権など思いつつ混み合う電車に朝が始まる
ようやくに眠りに就きし水無月の夜半の目覚めに雨の音聞く

 朝は自らを躍動させるための思考回路を巡らせるように、「占有権」などを車中で想起させる。しかし、「夜半の目覚め」では寂かに雨を感じている。何気ない日常を平易な言葉を選び取って編んでいる第一歌集である。
 作者は、長い闘病の後逝去された母の遺歌集を出版するにあたり、短歌教室に入り自身も作歌を始めている。

若き日に誰かの未来にいたはずの吾なお一人ゴドーを待ちおり

 集名の「ゴドーを待って」はこの一首から採られている。母の「鬱なだめひそかに待ちしゴドーなど遂に来たらず除夜の鐘聴く」の歌も背後には窺える。ベケットの芝居で、この「ゴドー」は様々な暗喩を含んでいて観客が自由に受けとる。作者と母の「ゴドー」が微に違うことが興味深い。作者はあくまでも来るはずの人としている。母の方はもう少し多義的な何かなのだと思う。自らの想念を全否定しつつも「鐘」が聴こえているのだから。

父と娘腕組み共に購いに行く傘寿の父のアスコットタイ
右膝に人工関節入れてなお母の介護とぞ父の決断

 父への親愛の情が伸びのびと詠まれている一首目。その父の母への献身は作者の人間性に深く及んでいる。

政権を投げ出されても変わりなく満員電車の通勤は続く
紫陽花が雨に映えれば亡き母が描きし油絵を想い出す

 真直ぐな視線を向けて日本の政治の現状を簡潔に詠んでいる。その地点からの追想は清新性を失わない。

多摩川にボート漕ぎ出し青春の共犯者たる君がいた夏

うすやみに光をとおす
田中雅子歌集『青いコスモス』

書評 寒野 紗也

青いコスモス

魚屋の濡れたお札も混じりたる財布しまいて市場から出る
わたしが手を触れたものが形見になる日がやがて来る少し早目に

 魚屋から受け取ったおつりの湿った感じにひとの暮しの生々しさが伝わる。二首目の四句までは、なだらかな言葉の運びで自愛の念が重くならない。それが、「少し早目に」という結句で歌の芯を貫くような鋭さが加わる。生と死が作者の中で常に共存しているようだ。五十歳で急逝された作者の第二歌集を塔短歌会の主として真中朋久氏の編集によって成した七一二首。

母姉と長旅をせし二〇〇五年の晩秋に灰のごと残る我
鉄棒を握る放課後放ちたる眼に死後の明るさ満たす

 一首目の「灰のごと残る我」とはどのように受け取ったらいいのか。母と姉と共有した旅の時間は微かな風に吹き消されてしまう。歌の中では「二〇〇五年の晩秋」という指定が鮮明に残る。次の歌は小学校の鉄棒なのだろう。放課後の開放感を「死後の明るさ」と追想しているのも何かを希求している直向きさが滲む。

領収書は薄すぎるなりとじようとする輪ゴムからごわごわそれる
切り口の鈍い声に変わりゆく空腹のまま口開くとき

 二首共に特異な内容ではないのだが、読後、忘れ難いものが残る。「とじようとする輪ゴム」の質感。「声」に切り口があり、それが「口開く」ときに体感してしまう作者の特別な聴力。読み直す度に新たな感慨を生み出してくれる。いとおしい歌集であった。

近江の里に死にゆく人を秋空が見降ろせば鰯雲死へと寄るなり
姉を残して自宅を空けていることの死ののちのごとき命静けき

薄氷を踏んだ日から
後藤倭文歌集『韻(ひびき)』

書評 寒野 紗也

韻(ひびき)

樹のことば 風のことばに わが言葉 楓(ふう)はしきりに赫き葉ふらす

 巻頭の一首である。一字空けの効果もあって、風通しの良い林の中に立っているような気持がした。「ことば」のリフレインの軽やかさに加えて、「赫き葉ふらす」が時の充足感を伝えて鮮やかである。

いつもより少し寝坊をした夫は起きて紅茶を呑みて逝きたり
軍医殿と書き下されし三人(みたり)の悔み 夫の言はざりし戦地でのこと

 長い歳月を連れ添って来た夫への挽歌も作者は感情を表立てることがない。いつもよりゆっくり起きて、いつものように「紅茶」を飲まれてこの世を去った夫は隣室に今も居るかのようだ。「軍医殿」と書かれた三人の文から、作者の知りえなかった「戦地」での事が夫の存在感を改めて強く迫ってくる。

八瀬村の今年の秋もすぎゆくか八つの灯籠の最後も去れり
燃えあがり火の粉散らして燃えあがり 灯籠木(とろぎ)は倒れ火花を噴けり

 二首共古からの神事を年ごとに守りつつ歌に成し得たものなのだろう。「八瀬村」の伝承は宮中との濃密な背景も浮かび上がってくる。「灯籠木」を描写しながら「燃えあがり」ゆくのは作者自身なのかもしれない。

鍵あけて誰もゐない家の中 カギあく音の意外にひびく
薄氷カシャカシャと踏み小学校にゆきし日もあり 永く生きたり

 略歴に昭和十五年アララギ入会、齋藤茂吉没後退会。その後「日本歌人」で選者を務められたとある。正確な写実力と自由な言葉の韻が相俟って、簡素で伸びやかな歌の世界が艶やかに編まれている。作者は、小学生のままに「カシャカシャ」と三十一文字を踏み続けてゆくのであろう。

この世のかげを見つめて
沙羅みなみ歌集『日時計』

書評 小原 奈実

日時計

 「歌を創るとは日時計になるようなものかもしれない。自分や周りに生じるさまざまの事象が、みずからを通過して歌として映し出されてゆく。」あとがきに記された、著者自身の言葉である。この言葉通り、事象そのものを描写するというよりは、その影のみをそっと示すかのような歌が多い。

この青はやがて立ち去る色だから望まれたなら差し出していい
行ったのに帰ろうとして、刺草はだから鋭く触れたのだろう

 例えば一首目、「青」が「立ち去る」とはどういうことか、何に向かって「差し出」すのか明確に読み取ることはできない。しかし、静かな喪失の予感や、それを受け容れたのちの淋しくも安らかな心境は、具体的状況の如何にかかわらず伝わってくる。二首目においても、誰がどこへ「行った」のかなどの経緯は述べられないままに、一度行ってしまったら帰れないという不可逆な運命と、抗った罰のように刺草に刺される痛みのみが読者に手渡される。具象を削ぎ落とすことによって純化された内面性こそが、日時計の映し出す影なのであろう。

痛いのはあなただけではないことと痛いのはあなただけであること
揺らされているというより揺れている枝だと気づくゆりの木の下

 痛みは誰しもがもつ感覚であるのに、眼前の他者の、今このときの痛みを、誰も共有することができないのはなぜか。木の枝が風に「揺らされ」ることと「揺れている」こととは、何が異なり、何が等しいのだろう。これらの歌には、個々の事象に基づきつつも、その内奥を深く見つめる思索が表されている。「かげ」という語が、光と、それによって生まれる暗がりとを共に名指すように、言葉によって思索を重ねるとき、わかりきったものと思えていた事象はときに矛盾をはらんだ謎として立ち現れるのだ。この思索は、歌集のなかでいくたびも「私」自身へと及んでゆく。

ひとひらの言葉に撓む私をわたしがしんと見ている真昼
仕立屋はわが影のため一枚の真白き布を裁ちはじめたり
あざやかな影になりたしたとうれば夏の真昼の日時計ほどの

 言葉の一語ずつを吟味しながら自らを問い直す思索においては、「わたし」は「私」から解離し、時として自らの影と入れ替わってしまうことさえあるようだ。日時計の本質は、物体としてのそれでなく、その影と、影を生んだ光とに宿っている。この歌集は、言葉によって日時計たらんとする者による、この世のかげの集成であろう。

爽やかな韻律
北野よしえ歌集『海虹』

書評 三浦 好博

海虹

 抒情に充ちた著者の第一歌集。詩人で著者の友人でもある川口晴美氏の栞文「水の流れを追って」が、「モルドウ」の流れのように上流中流下流と作者の歌言葉が展開していく様を解説して、北野よしえワールドに読者を誘う。連作、虚構、ルポルタージュ等編集構成上の確固とした意識にも惹かれるものがあり、一読爽やかな歌集である。少し挙げてみよう。

むんむんと草のにおいの肌ぬれて子を拭くは吾が胸拭くごとし
くらげのような蛍光灯の真下にて手足ゆるめれば昏し一生は
つきぬけて秋天は来よ白鳥座(はくちょう)の翼に両の腕(かいな)を伸ばす
蔓草を刈るとき嬉し百筋の悲しみを断つ音と思うまで
夕陽さす廊下端まで歩く間に旅人に回帰し得るだろうか
「はつゆき」と誰かが言った教室は光をまといくるものを見る
手の先に海がきらめく大橋の真中に立てばわたくしは川

 口語と文語を織り交ぜて快いリズムを出し、比喩や言葉の繋がり飛躍展開にイメージが膨らんで来る。軽快な歌が多いが、孤独な心が向かう歌の世界は、日常を詠んでも家族や仕事の雑事を突き抜けて、ここにあげたような歌ばかりではないが、特異な発想に転換し更に遠い世界への憧れにも展開する。

わたくしの命の間際を思うとき波にのまれし人の声聞く
彼岸花なだれ落つると見ゆるまで夕日射す土手10キロ圏内

 元々社会に開かれた目線を持つ作者が、自らも事故に遭い命の危険に晒された事から、東日本大震災の被災者や原発事故の被災者に思いが行くのは自然である。「10キロ圏内」という言葉が緊迫を持って使われる時代である。福井県は原発銀座だ。

いくたびも胸に抱いて泣いただろう八畳薄闇「明星」百号

 三十歳で夭折した山川登美子。拠り所であった「明星」が廃刊となってしまった時の嘆きを詠む。著者は若狭の山川登美子記念館に勤められている。

自然体の魅力
安川美子歌集『ダリア買う』

書評 三浦 好博

ダリア買う

 京都御所の近くに住む著者の第一歌集。のびのびとした正述心緒の歌の多い歌集である。

ダリア買う年金暮らしの家計簿はいつも花屋で予算をこゆる

 歌集のタイトルになった歌。退職しても直ぐ聴講生になって学ぶ姿勢は変わらなかった。その延長上に塔短歌会にて研鑽をつみ、このような身近な題材を掬い取った歌を中心に歌集を編む。自然詠にも魅力的なものが多いが、自然体の魅力を挙げたい。

公園から戻りし孫はカイト手に息はずませて風は重いよ

 努力した割には上手く上がらなかったのであろうか。「風は重いよ」の新鮮な言葉に動かされ、うたになった。

八十歳(はちじゅう)を過ぎたる母がひとり看る父は両手を縛られており
電話口にもうお仕舞いにしたいという友に言葉は力をもたず

 ベッドに縛る処置は抑制というらしい。老老介護の痛々しい姿であるが淡々とした詠み方がかえって注目を引く。又、薬漬けの友の萎えた生きる意欲の減退に、力になってあげられない無力感をしみじみ噛みしめている。
アメリカの若きら声あげ笑いいる原爆資料館になにがおかしい
 あるいは展示物以外の事で笑ったのかもしれないが、場所柄を弁えない英語を話す若者に、無念に死んだ者の気持が重なる。

『黒幕といわれた男』立ち読みす著者の顔など知られぬ本屋で

 安川さんには二〇〇四年洛風書房刊の「山段芳春の素顔」という副題のついた、このタイトルの著作がある。書店に寄ってさりげなく、この自分の本を手にとる誇らしげな気分を詠った。

肩こりの理由(わけ)見つけたり退屈がのしかかりたる肉うすき肩
地謡の声の力に背を押されうまくなりたる錯覚に舞う

 散見されるユーモアのある歌の中ではこの二首をあげる。好奇心溢れる日々であるのに、肩こりが退屈の為と言ってのけたり、能楽の舞いの出来栄えに酔う様子に読む者を楽しくさせる。

清澄な抒情の世界
奥田隆孔歌集『朱の霧』

書評 三浦 好博

朱の霧

八重垣の椿の丘の泉にて伝説のごと水を汲む君

 歌曲になった抒情歌七首の内の一つ。高校生の頃から作歌していて、「白珠」「塔」「潮音」に発表した約二千首中、夫人により選歌された四百五十首余りで編まれた著者の遺歌集である。木村雅子氏の序文。構成は一部~三部で終始抒情性に充ちている。幼少期の事故と輸血による肝炎を病む身は、一層自身の内面の苦悩から他者に対する人間的な苦悩へと、その清澄な抒情の世界を深め広げたに違いない。氏の得意とする静謐で幻想的かつ音楽的で、きらびやかな美しさも兼ね備えている歌の世界で、より己の内面に向かっていると思われる歌を挙げてみる。

うれひ来て森に入りつつあをあをと樹々の湿りが濡らす肉体
黄昏に最も汝を恋ふる癖牡鹿のごとく頸立つるまで
我に似る骨格を見に来しものか風鳴らしつつ裸木は昏し
果樹園に裸木満ちたる季節にも我は果実のごとき愛抱く
成熟の季節にそむく我に似て雨降る枝にあをざむる実は
陽炎に隔てられつつ尾根立ちて崩れ易しも我が自負の嵩
隕石孔われの眼窩となりてより眠らむことの涯てなき落下
夢魔のごと汝に被さりゆく我は大蝙蝠の影よりも濃き

 とても挙げ切れないが、かように流れ出る言葉は美しく愛と哀しみに充ち、時にナイーブであり時に艶ありで、表現は象徴的で現世を見る視線はさほど明るくはない。少年時代より風景と遊ぶことが多かったという。信念を貫き、周りの意見に影響されることなく生きて来たという美学が一集を貫く。藤田武の世界と重なるところがある。

海を癒やす午后の光に現身も目を細めつつ見らるるごとし

 歌集の末の方の歌には一段と内面的なものが加わり、平易で優しくなっている。更なる歌の境地の開拓を期待していたという木村雅子氏と共に、六十六歳の早い逝去を惜しむ。

帰るべきところ
岡部桂一郎歌集『坂』

書評 川田 由布子

坂

 平成二十四年に亡くなった岡部桂一郎の遺歌集である。

捨てられしトラック除けてここよりは坂となる道 暗く続けり
あの坂を登って由紀子が帰るなり枯れたすすきが揺れいるところ
あの坂をのぼって家に帰りたい 汽笛がぽーっと鳴っている坂

 歌集の題名となった「坂」の歌は九首ある。その全九首がベージュの表紙カバーに刻み込まれ、黒い大きな「坂」の一文字を支えている。「坂」は人生であり、よりどころであり、帰るべきところであった。なかでも三首目「あの坂をのぼって家に帰りたい 汽笛がぽーっと鳴っている坂」からは、今を生きる素のこころが伝わる。

青梅のひと日ひと日を太りゆく九十を過ぎて判ることある
ぼんやりと九十三歳近づくか右往左往の雪の降りつつ
九十五か 歌をつくれというけれど 餌を欲る雀窓に来ている

 享年九十七歳、岡部桂一郎はほぼ一世紀を生きて来た。年齢には自覚的で、自身の年齢を多くの歌に詠みこんでいる。この歌集を特徴づけるものの一つと言えるのではないだろうか。当然といえば当然だが、ページが進むにつれて年齢もあがってゆき、知らず知らずに時間軸に吸い寄せられる。一世紀の長い生に思いを重ねながら一首一首を読んだ。

幼くてわが失いし父の顔しずかに見えて朝消ゆるなり
誕生のくるしき時を思い出すまっくら闇にたつ母の顔
父母よいまどのあたり今生にまた遭う春が近づいて来つ

 父母を歌った三首を引いてみた。幼くして失くした父の顔と母のくるしみの表情が対照的で記憶に残る二首だ。父母を歌ったものは随所にあり、その思いは歌集全体の底流をなしている。父恋いの思いはとくに強い。

桃の皮むく乙女子の白き腕ほのぼのとして影を落とせり
刻告ぐというにはあらね朝三時ごろ鳴く烏学習をせよ
ゆうらりと近づくボンベさびしげにややかたむきてこちらを向けり

 小さな動物や植物もたくさん出てくる。蝶、頬白、蝉、犬、青梅、花柚子、毬栗など、あげたらキリがないが作者にとっては共生者。計らいがないというか、構えがないというか、ごく自然体で歌っていてどれも味わい深い。しかもこれらの小動物が生き生きとしている。長く生きて来た人の境地から生まれた清々しさがある。
 あとがきの、由紀子夫人の詩がすばらしいことを付け加えておきたい。

ユニークなロンドン紀行
山崎道子歌集『風と雲と青空と』

書評 小林 幹也

風と雲と青空と

 「あとがき」によると、著者は二〇一一年にロンドンへプチ留学をしたらしい。午前中は英語を学習し、午後からは各所・旧跡の観光、泊まるのは学生寮という毎日だったようだ。本歌集収録の歌は全て、そのときのロンドン滞在を詠んだものである。だから読み進めていくうちに、読者はあたかも著者と同行する形でロンドンとその周辺都市を歩んでいるかのような心地がするだろう。

バッキンガム フェンスに登りて儀式みる人の股下より我もみたり
天を突きさすが如くに凛としてビッグ・ベン雨降る中に立つ
ブリティッシュ・ミュージアムの本棚のガラスに映る我を見つけぬ
屋根なしの劇場に飛び来る鳥はシェクスピア劇の常連なのか
クイーンズ・ロードを南へと行き流れくる潮の香りを真向かひに受く

 人だかりのバッキンガムにて、どうにか儀式を見ようと「人の股下より」覗き見るというのが、何ともユニークである。また、続く歌も英国気質をそして風光を丹念に描きこんでいる。
 さらに著者は弱い者、幼い者にも目を注ぐ。

ホームレスがウォータールー駅に坐りゐてぶ厚き本をじつと読みゐる
幼さを残すアイス売る少年は暑き陽の下客を待ちゐる

 実際に足を踏み入れてみなければ分からない光景だろう。通常のガイドブックではなかなかお目にかかれない。これらの光景は、ここにまで目が届く著者のやさしさと心のゆとりを伝えると同時にこの歌集全体に奥ゆきをもたらしている。

感受性と許容力
西本利徳歌集『われ老いぬ』

書評 小林 幹也

われ老いぬ

 『われ老いぬ』という題名であるが、どうしてそんなことがあろうか。まだまだ身体も心も若々しい。それはとくにこの歌集に収められた旅行詠を読めば分かる。

山肌の遠く赤みて沈みゆく小諸出て恋ふ浅間のひかり
清らにも春蘭の株生えてゐる霧島神宮裏のうらみち
高千穂の河原にをれば横に来て餡パンを食む横須賀の女(ひと)
原鶴に舟を浮かべて鵜飼見つ鵜は真剣にわれはほろ酔ひ

 とにかく旺盛な行動力である。また旅先の風景に素直に感動する若々しい気持ちに溢れている。浅間山の歌も、霧島神宮の歌もその雰囲気を充分に伝えている。旅先での小さな発見のひとつひとつを大切に閉じ込めたのが、この著者の歌であり、読者はこれらを読むことによって、その発見の喜びをともにすることができるであろう。
 風景ばかりではない。「餡パン」の歌を見ても分かるように、偶然の出逢い、未知なる人とのちょっとした触れ合いを大切にしている。原鶴温泉での歌も、鵜と自分との対比が際立っており、笑いを誘う。柔軟な感受性と許容力がこの作者には備わっているのである。
 なお、この著者の御自宅は、JR熊本駅の直近らしい。なるほど旅行に出るには便利なところだ。著者の行動力の原点である。しかし、よいことばかりではなさそうである。

新幹線駅舎は建てり悠々と十時過ぎねば陽は差して来ぬ
駅前のタクシー溜まり場満車なり溢れてわが家の隣に停まる

 実際に住んでみないと分からない視点であろう。また旅先で触れる自然に対して対照的なくらい都会的ですらある。苦い笑いを含んだような、こういう歌まで幅広く収められていることがこの歌集の魅力となっている。

亡くなった家族への思い
今井千鶴歌集『砂漠の薔薇』

書評 小林 幹也

砂漠の薔薇

 亡くなった家族への思いが込められた短歌とエッセイからなる一冊である。家族を描くということが、この著者の一大テーマになっている。

お姉ちゃん皺がふえたね、まあ失礼と話し笑いき 勿然と逝く
モスクワフィルの「悲愴」ホールに吸われ消ゆ今日姑の祥月命日
老けたねとわたくしにいう美容院の大き鏡に亡き母がいる
旧知のごと声かけくるる人のいて父母の墓に法師蝉鳴く
玉蜀黍(もろこし)を三歳(みっつ)のわれに焼きくれし炉ばたの祖母の顔が見えない

 姉とその妹である著者の打ち解けたやり取りのなかに、どことなく気品が漂う一首目であるが、この姉は腰椎カリエスで寝たきりであり、楽しみは本を読むことと、音楽を聴くことだったという。ヴァイオリンの演奏会に行き、そこで亡き姉を思い出すというエッセイがこの本には収められている。
 次の歌も音楽から亡き人を偲ぶ作品だが、この義母と著者とはずいぶん生活感覚がかけ離れており、付き合いづらかったらしい。昔気質で、お嬢様育ちのこの義母と、その義母に仕える自分を、著者は「蟻とキリギリス」にたとえている。
 戦争で亡くなった父、父のいない家族を守り子供のためにだけ生きた母の話、幼い著者が玉蜀黍を祖母にねだりお腹をこわしてしまう話などエッセイでも紹介されている。
 しかし著者の視点は過去ばかりに向かっているのではない。未来に向かっても開かれている。息子や孫について記された短歌もエッセイも軽妙で楽しげである。

三日いて幼な帰りぬ湯に入れば曇りガラスに「ゴジラ」の指文字

夏のさかりのこの晴天に
高橋勝義歌集『風の菩提樹』

書評 西村 美佐子

風の菩提樹

 「述べる」と「記す」の違いをあえていうなら、「述べる」が思いの痕跡をもつ「文」であるのに対して、「記す」は数字あるいは固有名詞への覚書き、となるだろうか。『風の菩提樹』を読んでゆくと、作品がそのふたつの記述的方法のあいだを行き来していると感じる。意識的な構図というよりは、記すことへの著者の猛烈な拘りが齎す結果だろう。その徹底ぶりがピュアで、理屈抜きにおもしろい。

真中朋久第三歌集『重力』を 六月間でよみおわりたり
没後五十年記念出版『茂吉の山河』を 四年あまりでよみおわりたり

 短歌という詩型には場違いとおもえるほど覚書きめいている。このパターンの作品が集中に三十一首、同一なモチーフも含めれば四十首以上になるだろうか。本のタイトル及びそれを読むのに要した時間が記されるだけの歌である。「だけ」なのだが、そうした作品が集中に数十首もあると、「だけ」ではすまなくなってくる。繰り返しのなかでしだいに、数字そのものが暗喩性を帯びてくるのだ。記録にすぎないかもしれない数字が、いや、むしろ事実そのものであるからこそ、メタファーの気配は濃厚になる。メタファーというものの正体はあるいは、このような徹底的な記述的方法によって暴かれるのかもしれない。

夏のさかりのこの晴天に ドイツにてヒルデ・ドミーンは九十三歳なり

 ふしぎな時空間を提示する一首である。下句の現在形での表記が、詩人の存在を直に伝えるからだろうか。この歌もやはり事実としての九十三という数字が効いている。
 集中、「述べる」でなく「記す」のでもない作品がある。この一首のポエジーのために一冊があるのかと思えるほど、くきやかな映像が起つ。つぎのような、妻の歌である。

花柄のガウンを着たるわが妻が 朝の庭に降りたちにけり

さびしい懐かしさ
藤井幹雄歌集『巨大風車』

書評 遠山 利子

巨大風車

廃線の決まりし峡の駅長はたつた一人で雪を掻きをり
独り居の老女逝きたる家あたりともしび消えて蛍とびをり
松枯れて景観変はりし砂山に巨大風車がつぎつぎと建つ
幼き日秘密の基地としたる穴世界遺産となりてにぎはふ
伝統の相撲に負けたる島の子は回(まは)しはづして海へ飛びこむ
砂山に自動車とめて妻とわれ蛸焼き食みつつ落日を見つ

 著者の藤井幹雄は教職を退き還暦を過ぎてからNHK学園「短歌入門」を受講。現在は「短歌友の会」会員。二十年間の作品をまとめた歌集である。著者の住む島根県川本町も多くの市町村と同じく過疎化が進んでいるようだ。郊外の砂山に忽然と立ち並ぶ巨大風車、これが歌集のタイトルにもなっている。違和感を持って眺めた初期の頃からやがて日常の景となるまでさまざまな発想で詠んでいる。
 さて、島根県は神話や祭りの原郷である。それは非日常への扉が開く場所。祭りが終わった静けさの中でふと見えてくる人の世の哀歓。作品にはそんなさびしい懐かしさが漂う。

啄木の歌教へくれし若き師は南の国の空に散りたり
初雪を置きて静もる鴨山を茂吉の歌碑に寄りそひて見つ
菜の花のつづく川辺をお遍路は白蝶のごとく遠きに消ゆる

 二首目、柿本人麻呂の終焉の地を確かめようと齋藤茂吉は石見の鴨山を何度も訪れている。茂吉の歌碑に寄り添う著者の思いは深い。三首目、菜の花の道を遠ざかる遍路の人影。白い蝶に喩えられてそれは今生の人でありながら又、かの世の魂のようでもある。作者の歌の根底には、無念の思いを抱いて消えていった多くの命への鎮魂の思いが潜んでいるのであろう。
 「あとがき」に河野裕子から著者に送られた言葉が記されている。「歌は一生かかって一枚の布を織るようにあなたしか出来ない歌を最後まで詠みつづけることが大切です。」