青磁社通信第二十三号VOL.232012 年 1 月 発行
巻頭作品
悲しい男
「八円で一家五人を養うは不可能なり」と記す啄木
貧・病にめげず励みし啄木は短歌・詩・日記・評論残す
啄木の歌は韻律美しく、脱力系の歌かも知れぬ
ネーミング鋭く凄い啄木の小説「雲は天才である」
生きざまがまるでドラマの啄木は憑かれたままに短か世を終う
啄木は妻の節子を幸せにしてやれなんだ悲しい男
天才が好きなんだオレ、短歌では晶子、啄木……二人だろうね
エッセイ
茂吉の初孫として・・・
祖父が二年半ぶりに疎開先の山形から上京した昭和二十二年十一月、私はまだ一歳半だったから、その後に展開されることになる「茂吉の初孫溺愛」については、ほとんど記憶にない。父・茂太の著書『茂吉の体臭』(岩波書店)にその溺愛ぶりが詳しいので、少々引用したい。
帰ってきた茂吉は世田谷代田の家で茂一と初めて対面したが、その日の日記にはこう書かれている。「茂一ハハジメハ変ナ顔ヲシテヰタガ、抱カルヤウニナリ、一シヨニ食べ物ヲ食ベサセタ」。翌日の午後、初めて「茂一ヲツレテ一寸散歩」したのが始まりで、以後散歩が日課となった。「朝食ノ後、四畳半ニテ茂一ノ相手ヲナス」「茂一ノ部屋ノ障子ノ紙張リ」「夕食ノ後、茂一ヲ相手ニ機嫌ヨク過ゴス」「今日ハ茂一大イニオトナシカツタ」「茂一ノ守リヲス」「茂一一人ニテ醒メテ居ルノニ行ツテ一シヨニ遊ンダ」「梅ヶ丘ノ荒物屋ニ行キ茂一ノ便器ヲ買ツタ」等、毎日の日記に茂一の名前が見えないのは珍しく、時には「留守中茂一ノオムツノコトデ大ニ怒リ輝子ヲナグル」などという穏やかならぬものもある。
しかしながら、茂吉との「蜜月時代」は、そう長くは続かなかった。私と弟の章二が成長するにつれ、二人して頻繁に祖父の勉強を妨害し、悪戯をするようになったからだ。
岩波書店の会長をされていた小林勇さんの文章には次のようなのもある。
「先生の茂一は、実に活溌な童子で、私と話している前へ突如としてあばれこみ、先生の前にある菓子をわし掴みにして逃げる、或いは先生におどりかかる。実に騒々しい童子であった。先生は口でひどく叱るのであるが、眼は笑っているから孫はそれを見抜いていて、けっしておそれなかった。閉口した先生は茂一君の母親を呼んだ。それは私に不思議な感情をおこさせる声とアクセントであった。『みちこや、みちこや』と呼ぶ。きこえないとみえてふたたび先生は『みちこや、みちこや』と呼んだ。童子は母親につかまって室から運び出されるがまもなくふたたび闖入して来た。」
三年後には新宿区大京町に引っ越すが、体力の衰えが著しい祖父は寝台車に横たわって新居入りしたという。「天気のよい日には二人の孫とチロという猫と縁側でよく日向ぼっこをしていた」と父は書いているが、私には庭で弟と興じたどろんこ遊びや駆けっこの思い出しかない。
昭和二十八年二月二十五日に祖父は亡くなったが、これほどの寵愛を受けた私なのに、茂吉の文業や短歌に対する理解は、恥ずかしながら、今に至るも全く以って乏しい。
その責任の一端は、昨今の「お受験ママ」でさえ仰天するようなスパルタ教育をした母・美智子にもあったのではないか(と、思っていた)。十八歳で、尊敬する斎藤茂吉の長男の嫁として嫁いできた母は、義父の執拗ともいえる「孫はまだか?」の催促に応え、二年半後に無事私を生んだが、お茶の水高女(現・お茶ノ水大学附属高校)をきわめて優秀な成績で卒業した母の男子出産の次なる仕事は、この長男を斎藤家の立派な四代目に育てることで、私は幼稚園の頃からハードな受験訓練を強いられたのだ。
期待に応えて、(成績優秀ならば)大学医学部までエスカレーターで行ける慶応幼稚舎(小学校)に合格したが、親の安堵とは裏腹に、それは私の反抗の始まりでもあった。小学四年の「将来の夢」という作文に「医者にだけはぜったいにならない。」などと書いている。母はそれでもいっさい手綱を緩めなかったから、私は高校生になっても家に背を向け続け、ろくに学校へも行かずに遊びと部活に明け暮れるというふしだら極まりない学生生活を送ったあげく、とうとう慶応高校をクビになって(直後に自動車事故で重傷を負うというオマケまで付き)、両親を失意のどん底へ突き落としてしまう。
だが、長かった私の反抗期もそこで終わることになる。病室で付き切りの看護をしてくれた母の姿に、それまでの愚かで情けない行状を恥じ、これ以上迷惑は掛けまいと決めたのだ。その後は心機一転、受験勉強のすえ慶応大学(商学部)へ合格、復学を果たした。
ごく自然に医大へ進んだ弟に斎藤病院の四代目を託した私は、卒業後米国留学を経て電通へ入社したが、のちに経営担当として病院へ戻ることとなり、現在に至っている。
五年前に父が逝った後、斎藤茂吉短歌文学賞贈呈式に斎藤家代表として出席するようになった。最初は、短歌に無知ゆえ固辞したが、「(風貌が茂吉に似ているから)檀上で座っているだけでもよい」という(少々失礼な)励ましのお陰もあって、今では五月の式典参列が苦痛ではなくなった。
嬉しい出会いもあった。平成二十年の永田和宏さんに続き、翌年は河野裕子さんが受賞されたが、受賞者が次回に記念講演をするきまりなので、「歌壇の磯野家」こと永田家の皆さんとは三年続けてお会いすることができた。
平成二十二年、辛い病に耐えて立派に講演してくださった裕子さんの姿を、私は忘れないだろう。
日本文化の根源 −−九州の三冊の歌集
西本利徳歌集『みやまさくら』
八十になって歌集を出す喜びを西本利徳氏は「なるべく禅(しずか)に噛みしめていたい」と書く。「禅」を「しずかに」と読む西本氏に信頼を寄せて、私も「禅に」歌集を再読した。
六十の定年後、生の終焉を迎えるまで、現代人はながい時間をもつ。赤子が青年になり、而立に至る時間を現代人は高齢者としてどう生きるか、重い課題である。西本氏はその時間をすでに二十年生きた。その記録が歌集『みやまさくら』である。
西行が吉野に籠もったように、西本氏は霧島に山荘を造り、自分の声も忘れるような孤独のなかで自然や命を禅に見つめた。
霧島はみどりかさねて吹き上ぐる四月の息吹万里に放つ
霧島の山裾遠く続きをり桜島暮れて光るときあり
世に生きて暮れゆく山のかげに聞くドヴォルザークジプシーの調べ
茂吉が「大いなるこのしづかさや高千穂の峯の統べたる天つ夕暮れ」と詠った霧島の深い静寂にドヴォルザークのジプシーの調べがいかにも似つかわしい。作者の脈動が伝わるようだ。西本氏は芭蕉が全国を旅したように世界を旅して、荘厳なる自然に触れ、人類の作り出した文化に直接触れて心を深める。
名も知らぬ氷の湖にかがよへる陽はシベリアの彼方よりさす
ヴァチカンに額(ぬか)あげて見る「ピエタ」像マリアの浴ぶるひかりかなしく
ウオーリックの城に孔雀の遊びをりバラ戦争は遥かに遠く
芭蕉の『奥の細道』のような紀行文を書きたいと思っていたが書いてみると歌になっていたという。妻に「このひとと一生を暮らしてきて本当によかった」と心から言える氏の生き方に神が短歌をくださったのだと私は思ったりした。
ひらきはじめた蕾のなかに
立川目陽子歌集『螺旋のつぼみ』
『螺旋のつぼみ』という歌集があたかも一つの花のつぼみのように、その内側には、作者の家族や親族の歌がしまわれている。亡き父の歌、介護を必要としている母の歌、夫の歌、娘や息子との間に生まれる内面の葛藤や家族ならではの感情が、詠まれている。
いちまいの鋼が言葉をはじくやう 子を説けど説けどわたしを拒み
いちまいの和紙にくるまるるここちして茶房に対きあふ巣立ちせる娘と
卓上にバナナ熟れゆくこの夜をお母さんと呼ぶ夫はわたしを
痩せし手にベッドの柵をたたきゐる母をしかりぬ椅子軋ませて
母と子の感情は、とくに思春期はすれ違うことが多い。母親の注意は、子どもにとってはうっとおしいものだ。その拒絶の緊張感を「鋼が言葉をはじくやう」という表現する。しかし、娘が成長して巣立ちする頃になると、関係は良くなる。「いちまいの和紙にくるまるるここちして」という表現も卓抜である。夫が家族関係の中で妻を「お母さん」と呼ぶ時の喩のように置かれる卓上のバナナの熟した香。自分の意思を告げようとしてベッドの柵をたたく、介護されている母のイライラまで伝わってくる。表現を、作品の言葉のレベルまで引き上げようとする意識が随所に働いている。それは風景を詠んでも同じで、次の歌のように冬の夕暮れの情景描写に、朝顔のつぼみの螺旋への眼差しなどにも作者独特の言語表現が見られる。このような言葉の蕾が今後どのような世界に花を咲かすか、楽しみである。
釣鐘を空に引き上げてゆくやうに冬の日輪こくこくと消ゆ
雨止みてゆふさりの門にあさがほのつぼみの螺旋ふつくらとせり
日本文化の根源 −−九州の三冊の歌集
鳥越芳子歌集『過ぎゆきの日々』
人間関係が希薄になり、孤独死などという奇異な出来事が日常に起こる時代に生きている私どもに、歌集『過ぎゆきの日々』はなつかしい故郷に帰った安堵感を与える。
竹の根を掘りし唐鍬樫の柄に握りし祖父の手の跡残る
ありがたう孫の言葉の返りくるこの素直さにあやかりゆかむ
まさぐりてわが手求めし姑の手に重ねて心通ふひととき
去年(こぞ)の日は二人なりしと山畑に夫の植ゑたる松の手入れす
人間として大事にすべきことを鳥越さんは、丁寧に積み重ねながら、急がず焦らず生きている。その生活ぶりが克明に歌集に残されている。
いまは亡き河野裕子が「序」を書いている。死の間際まで歌を詠み続けた本物の歌人河野裕子が何度も「歌集を出しなさい」と勧めるほど、鳥越芳子さんの歌には力がある。
晴れの日は草履下駄はき雨の日は裸足に砂利道駈けて通ひき
風呂水を汲むも沸かすも子の役目学校も遊びも急ぎ帰りき
繭玉の輝きまぶし夜も寝(ゐ)ねず毛羽取る母を埋めて白し
背の低きわれが担ぎし天秤棒に下がりて底をひきずりし畚(もつこ)
鳥越さんは父母・義父母、兄弟姉妹などあらゆる家族を心籠めて歌う。本来、家族というものはこういう絆で結ばれるべきものだったのであろう。日本は本来こういう家族が支える国だった。そのなつかしい日本がここに確かにある。
鳥越芳子さんは絵もされるようだが、絵も歌も対象の命をしっかり見つめて、飾らない実直なものである。そこに多くの智恵をわれわれは読み取ることができる。わが風土はこういう文化をもつ人々を内深く擁していることを誇りにしたい。
日本文化の根源 −−九州の三冊の歌集
上野直歌集『ほどほど』
作者上野直氏はもと警官。瑞寶單光章受章を宮中で貰った実直な人である。
「おれもくさ 父ちゃんのごつ勲章ば もろえたばい」と遺影に語る
退職後、銀行などに勤務ののち、子供たちの朝の登校を見守っておられるようだ。
天邪鬼身勝手我儘短気坊頑固一徹木偶坊、俺
名は体を表わすといふ「上野直」実直・率直・素直・正直
上野さんは、漢字を並べたり、名詞を並べた歌つくりに楽しみを感じているらしいが、小さくうつくしい詩形には次のような歌が似合うと思う。私の好きな歌。
甌穴の上の濁流岩ばしり落つれば虹の関乃尾の滝
韓国岳の裾野をわたる霧雨に鹿の親子の濡れて佇む
ほどほどのほどがいまだにわからずに諍いており夕餉の妻と
諍いて背中合わせに寝たせなが大き耳して動きをさぐる
ひとつずつ妻の記憶の消えてゆくひとつとなりて吾も消ゆるか
作者は結社にも入らず、歌の仲間もなく、宮崎日日新聞の歌壇に投稿を続けているという。選者濱田康敬氏の推挙で宮日歌壇の「年度賞」を受賞したこともある。
私は上野氏の作品を何度か読んで、結社のなかで、仲間の忌憚のない意見にもまれ、切磋琢磨されることを勧めたい。そのうえで、新聞歌壇に投稿されたらいいのである。
倒木に若き命の生まれおり幾千年を経ての屋久杉
歌会なら「経ての」に必ず意見が出る。「たる」がいいことが指摘される。これで、この歌はいい歌に生まれ変わる。
日常に心を揺らす
倉松しん子歌集『海がはこぶ』
破れやすきバターの銀紙 ともだちはあなたのように鷹揚でなし
ガーゼにくるみキャベツを糠に漬け込めりやさしくおなり明朝会おう
この家で一番古きかおをせり菜切包丁研ぎ上げられて
草花の影が天井に映るころその下にわれの時間を広ぐ
子どもたちはそれぞれ巣立ち、静かな生活を送っていると思われる著者。老いてゆく現実を直視しながらも、日常の合間に心を揺らす。家の壁や出かけた先の風景、吹いてくる風や差し込んでくる光の中で、傍から見ると、落ち着いて見えるが、気持ちはいつもざわついているような…。『海がはこぶ』は、そんな著者の気持ちが隠されることなく詠まれている。
家事や趣味をしながら、歌が紡がれてゆく作者の日常。日常を正確に詠むことで、歌がふくよかになっている気がした。
メレンゲのクッキーを子が送り来ぬ こわれずに来て口にじゅっと溶く
ハンバーグはもう作らぬにカレーはつくる、あのころの鍋とりいだしては
目覚めてはわが膝にきて離れざる新入り猫は母かもしれず
一軒の灯の消ゆる瞬間に通り合わせて父母をおもえり
また、この歌集には家族がたくさん詠まれている。読みながら、ふと父母を思い、祖母や曾祖母を思って、心強くなったり、切なくなったりした。思い出を大事にしながら、今も確かに生きている著者の姿に読者は、自分の家族を思うだろう。
いっしょに生きた人を思うとき、人は強くなれるのだと思う。著者が誰かを思う歌に、自分は強く、優しい気持ちになれる、やさしい歌集だ。
不思議な心の旅
村山悠子歌集『卵の番』
この世のすべてのものに神が宿っていることを改めて感じさせ、思い出させてくれる。
そして日常をふわっと切り取り、かわいらしく詠める感性につい著者の世界に引き込まれた。
冬の木のしづけさに眠る雉鳩のふたつの重みこの木はうれしい
縄のないなはとびをする子も猫もあなたにも入れてまだまだいれて
月いろのつきの落ちきてころがれば猫はにやにや歌はうにやむにや
まつすぐに物言ひたいと思ひます 猫はねむいと寝にゆきました
虫のわれ草の朝露ひとつ飲み虫語にていふ「イイオテンキデ」
いろんな気持ちを楽しめる著者の自由な発想にわくわくする。カタカナの遣い方や、「あなたにも入れてまだまだいれて」など、言葉を楽しんでいるところもいい。詩の力と言葉が弓で飛ばす矢のように、世界へ放たれてゆく感覚がある。
ノスタルジックな雰囲気、動物との会話、印象的な固有名詞など、読むと違う時代や知らないけど懐かしい町へ行けそうだ。
とほくとほく鳥がゆくなり うはの空にあなたの話きいてはいない
不思議な心の旅をしながら、気持ちが解けてゆくようなゆるい時間を『卵の番』で。
等身大の思い
狩野聡子歌集『若草色の便箋』
この家にいつかひとりになるのだろう米を研いでも薔薇を生けても
著者が二十代から三十代後半にかけての作品がまとめられている本書は、とても静謐で、人として、女性として、感性を大切にしながら、丁寧に生きている感じが伝わってくる。
運命の人かもしれぬと思いいし彼の日の我を我は恥じない
ああいまも信じているのだ自らを梅雨明け近き夜の雨音
恋に揺れる思いも多く詠まれていて、失恋の歌も少なくない。でもそんな感情を積み重ねて生きてゆく様子は、ひとりの人として等身大の思いが表現されている。若い読者に共感される部分かも知れない。
しかし、恋を詠むと同時に、著者は一人で生きていく強さを養っているのだと思う。そして歌集の軸というか、著者の思い入れは実はここにあるのではないだろうか。
少しずつできるようにとなってゆくできない自分失われゆく
体内に月こうこうと冴えわたる場所あり我は眠られずいる
飾ることなく、ときにつたなく、ときに強く、本心が詠まれた歌は、淡々と詠むことで、かえって心に残る作品となっている気がする。
誰もが心に抱いたことのある不安や心理を静かな日常から切り取る、著者の素直な言葉や感覚は、生々しいけど、おとなしく、深夜の月とか、小春日和の日向を思わせる歌集だ。最後に作者の横顔が一番感じられた歌を。
おおかたは人の流れに沿いつつもゆずれぬ耳を頑なに持つ
圧倒的な自然の力
なみの亜子歌集『ばんどり』
河瀬直美監督の『萌の朱雀』はしたたるような緑そのものが主題といった印象の映画であったが、その映画に後押しされるように移住を決意したというなみの亜子さんの歌集もまた、急峻な山々に抱かれた西吉野という土地が、何かのっぴきならない強さでぐいぐいと存在を主張しているような、圧倒的な自然の力を感じさせるものであった。
トタン打つ音にてはかる雨脚のはげしくあらば火照れる家内
わが山腹にはおもき雨粒もたらして雪雲というは層なし動く
いっせいに落下してくる雨粒は山のおもてに身をかたぶけて
山に降る雨大きくてなにひとつ遮るもののなき降りにある
雨上がり山を降りゆくひとのみな雲に分け入り戻らぬごとし
まだ相当な雨粒かかえもつ空ときのうの雨を蒸しいる土と
雨を経て山は毛深しこの夏は草刈って刈って刈って終わらむ
なかでもこういった雨の歌が好きである。年間降雨量が半端でない吉野地方であるから生活と雨は切り離せないのだろう。トタン屋根に容赦なく降る雨、遮るもののない真っ直ぐで太々とした雨、たっぷりと雨を含んで重たく層をなす雲、といった天象を、しかし作者は心から堪能しているように思われる。そしてそれは作者自身が前集の「あとがき」に記していたように「何かが過剰すぎる」なみの亜子という歌人の持つ直情径行で人間臭く、たぶん大いに淋しがりやの側面によく合致する。
一本の川 だったころ 私の もっとも深きところに 沈めた
ついでに言えば本集には水に関わる語が頻出する。雨、雪、霜、沢、川、海、涙から尿まで。雲とか傘、合羽、水道、樋、橋、流木のような縁語まで入れると相当な数になるだろう。そのなかでなぜかこの一首の、ぷつんぷつんとした一字空けの空白が気になってながく立ち止まった。「一本の川 だった」私とは「複雑な支流など持たない、すんなりとした若い川」と読んでいいだろうか。そして「もっとも深きところに 沈めた」ものとは何か。おそらく若い精神のもっとも深いところに落とし込み、二度と浮きあがらせないように沈めた何かなのだろう。もしかしたらそれは前集の栞で吉川宏志が指摘した欠落感とつながる何かなのかもしれない。
あの人とは随分ながい夢ぬちでかならずわたしを抱きたがるひと
水のゆめ多しおしっこしたいゆめ多しいずれも明け方ちかく
さまざまの男とまぐわう夢つづき腫れはじめるなりわが卵巣は
夢に仮託して語られるこういった潜在意識も見逃せない。フロイト風に読めば抑圧されたリビドーなのだろうが、なみの亜子の抱え持つ奥深い何かを知る手掛りになるかもしれない。
広く丁寧なロマンチシズム
永田和宏編歌集『高安国世アンソロジー』
『高安国世アンソロジー』は高安の表現法の変化の激しさとともに、高安の一貫したロマンの世界を伝えている。
うつうつと豌豆のすがれ抜き居れば自轉車のベル鳴りて妻來る 『眞實』
寒の夜の風呂に浮びて微かなる花びらありぬ何の花びら 『年輪』
これらの初期の作品には、生活に即したモチーフがみられる。しかし、豌豆のすがれを抜く行為と妻の訪れは時間の推移があり、そこにロマン的な心のドラマが表されている。また、「何の花びら」という収め方にも、歌謡のロマン的なものを感じる。
海――その白き歯の前を幼きひとり手を引かれ行く 『虚像の鳩』
心放て心放てと硝子戸の外の夕空をなだれ行く鳥 (同)
中期の『虚像の鳩』の時期もまた、前衛短歌の表現法を汲み取りながらも、世界への嫌悪には向かわず、高安の美質であるロマン的で楽観的な価値観があらわれている。海が白い歯であるのはシュールで不気味だが、「幼きひとり」は導かれるままに「引かれ行く」。そして、「心放て」のリフレインを表す鳥は、ぼんやりとした「夕空」に意志もなく「なだれ行く」のである。
はかりがたき粉雪ひとひらひとひらの動きもついに土におりゆく 『光の春』
赤き頬が笑みに染まりぬ道の上にそのひとの名を思い出すまで (同)
雨あとの森に光りて降るしずく荒く細かく絶えまなく降る (同)
ただ日なたをたのしみていること多し病みあとの身のふわふわとして (同)
『光の春』で顕著な、茫漠として広い表現が私にはとてもうらやましい。今となっては没個性的にみえるこれらの表現のなかには、広い丁寧さと世界に肩ひじ張らずとけこむ絵画的な美しさがある。これらの絵画的な表現は、われわれの時代が一度は悩まされる「自己愛」や「世界への対峙」といった、なにものかを認識しなおす、なまなましく厳しい考え方からはうまれてこない。高安にとっては、気がつけば世界からは美しい光がこぼれていたからであり、あえてその光を主張するまでもなかったのだろう。とくに三首目の「荒く細かく絶えまなく降る」という表現は、言語化すると不整合に思えるが、彼に見えていたのはこのような絵画的な風景であったことの証明ともいえる。この表現は、厳密な言語化や自己認識ゆえのものではない。主張をあからさまにしない、彼なりの美しさへの賛美だと私は考える。美やロマンを自己認識の道具としないがゆえの上品さ。その一見茫漠とも思える表現に、彼はたどり着いたのだろう。
〈われ〉と〈命〉の考察
坂井修一評論集『世界と同じ色の憂愁』
『世界と同じ色の憂愁』は『斎藤茂吉から塚本邦雄へ』に続く、坂井修一の第二評論集である。
本書で坂井は、作歌論からなる分析と、近代から現代への短歌史を俯瞰する総合的な論考を試みようとしている。
収録されている評論は、ハードなテーマを扱いながら内容はどれもコンパクトで読みやすい。おそらくそれは、その後に多く加筆されたと推測できるが、歌誌や短歌雑誌のために書かれた評論が多く収録されているからであろう。
また坂井が、高野公彦を述べた「かなたまばゆき」や「絶対音感の世界」が収録されているのもありがたい。
本書の坂井の狙いは、「近代・現代の短歌表現の根底にあるものを探ること」である。「あとがき」では「本当の意味の俯瞰的なトップダウンの論考はこの本の後に別の本を書いて行こう」と第三評論集の予告もサラリとではあるが述べていて、今から次の評論集も楽しみである。
さて、まず坂井は、近代から現代短歌までの〈われ〉の系譜について述べている。ときおり〈エゴ〉とも表記されているが、この〈われ〉にかかる問題は本書の核である。
西洋から輸入された自由平等や個人主義の考え方によって、あたらしい〈われ〉が歌われだすと短歌は従来のハレとケの歌にも変化をもたらし、ナショナリズムの後押しとファシズムを擁護するための装置として利用されていった。戦後はその反省から短歌には、宮柊二、近藤芳美、また塚本邦雄の歌にあるような、新しい人間性が求められていった。
坂井は、これらの考察を例歌で示しながら分析してゆく。その論の流れは純粋に楽しく、スリリングでもあった。
本書のもう一つ核は、釈迢空から高野公彦へ、という短歌の流れであろう。
齋藤茂吉の歌にあるような近代的自我が、戦争の時代を経て、塚本邦雄や岡井隆らに、どのようにあたらしく形成されていったか。男性歌人の自我について、このような近代短歌から現代短歌への流れを見る一方で、「日本人の命のありか」について坂井は、近代短歌と現代短歌を結ぶ一つのきずなとして、釈迢空から高野公彦へ流れを見ているようである。
ここで坂井は、この迢空と公彦の直結を自ら警戒しながらも、「近代以降の短歌にあらわれる自然観・生命観のありようを端的にさぐり、また近代と現代の落差を明快に観察してみたい。」とも述べている。
坂井は、本書のなかで近代から現代への短歌史を俯瞰することに腐心し、坂井流の短歌史の構築と再検討を行って、周到に述べている。しかし本書の役割は、それだけではないだろう。坂井は本書を通じて短歌の未来を見ようとしているのである。
歳月のおくりもの
黒住光歌集『晴れの島』
八月の終わらんとして荒ぶ海戦に果てし父へとうねる
軍帽は幼き両手に重かりき父征き逝きて五十年を経ぬ
黒住の父は、終戦二日前にビルマで死を遂げた(「跋に代えて」澤辺元一)という。一首目は、父を呑みこんだ八月の海を見ての感慨である。波が父の魂を鎮める子守唄のように聞こえるのだ。作者の鎮魂の思いと自然の波のリズムが美しくも切ない。二首目は、厳めしい軍帽の重さを介して、五十年という時間をかみしめる歌。「征き逝きて」という約まった表現に、有無を言わせぬ戦時の異常な雰囲気を今に伝える。冒頭の一連の他にも父の歌は点在する。父の思い出を内に秘めながらその後、黒住は男女六人の子どもを得て、ひたすらに生きる。
夜の浜ににぶく光りて満ちてくるかの潮のごとく吾子は来たれり
夏草の中進みゆく麦わら帽続けば三つまぎれなき吾子
波間に消えた父の代わりのように、月満ちてわが子が誕生する。「かの潮」には、父に対する複雑な思いも含まれるだろう。二首目、平和の象徴のような麦わら帽子が、夏草の中をゆく幸せに満ちた瞬間である。黒住は六人の子をほぼ育て終えたとき、自宅を開放して昼間だけ乳児を預かって育てたというから驚く。今でも乳児保育制度の一環に保育ママ制度があると聞く。持てる力を社会に還元する姿勢は尊いものである。
いみじくも昼間里親とよばれいて子らの切なきこころも抱けり
みどりごの青年となり現れぬわが保育室二十周記念日
乳児の身体のみならず、切ない心までも抱くという深い慈愛に満ちた保育は、眩しいほどである。二首目は、飾らぬ歌い口に、却って強い喜びが伝わる。福祉等に対して批判する歌も出て来るが、実体験の背景があるからこその強さがある。
内在的批判の眼
米口實歌集『拡大と変容』
この評論集の前半を占めているのは「短歌遡行」という連載評論である。この論考は、近代短歌の歴史全体を視野に入れた壮大な写生論批判の文章だといってよい。
戦前・戦後を通じて、アララギの写実主義に対しては多くの批判が寄せられた。「糞リアリズム」「トリビアリズム」などといった罵詈雑言は、アララギ以外の人々の口から何度も語られた。前衛短歌において「想像力」が重要視された背景にもアララギの糞リアリズムに対する反撥があった。
米口が批判するのも、このアララギの俗流写実主義である。が、米口は、他の無責任な批判者のように感情的に反撥しはしない。「私は近代短歌史を勉強しているものとしての責任から、「写生」が近代短歌を支えていた時代を再検討して、何故、時代が変わったか、アララギの覇権の実態は何であったかを検証する義務があると思った」(米口)。この責任感あふれる言葉でも分かるように、彼は、批判の対象であるアララギのリアリズムの本質を深く見つめ、その功罪を内在的に明らかにしようとしている。米口は、アララギを批判するために、一旦、アララギの懐深くに分け入って強さと弱点を探ろうとしているのだ。
実際、米口のアララギ理解は、旧アララギ会員一般の理解よりも遥かに深い。現在、このような深い理解をもってアララギの写生論の歴史を語りうる人間は稀なのではなかろうか。
「散文」の明晰性をモデルとして「ありのまま見たるままに其事物を模写する」ことを主張した子規の素朴な写生論が、長塚節の様式美への顧慮を含めた精緻な描写によって高みに齎される。その流れは、「写生」の概念を「作者の内的要求による選択に従って対象から(略)濃縮された秩序を抜き取る方法」として写生を規定した島木赤彦によって一応の完成を見る。米口はまずもってそのような「写生論」の「功」の部分を冷静に指摘し、その上で、斎藤茂吉の「写生論」の思弁性や、戦後の土屋文明が主張した「生活即短歌」というプロパガンダという「罪」の部分を指摘する。その論は、米口の明晰な歴史観に支えられているだけに深い説得力を持つ。
いまだに地方歌壇に蔓延する「生活の細部をそのまま写し取れば歌になる」というアララギ所以の俗流写実主義。それに苦しめられた米口の恨みは深い。が、米口はこの書で、それが戦後アララギにルーツを持つことを論証し、本質を明らかにしてゆく。その視線は呵責なく的確だ。白秋門下の米口がこのような内在的批判の眼をもっていることに、私は深い畏怖を感じた。
なお、この本の後半には、鋭い時代精神に充ちた短歌時評が再録されている。かつて、私は時評を書いているとき、この米口の勇気ある発言に何度、励まされみずからを叱咤したことか。権勢に右顧左眄しない彼の短歌時評は短歌界の良心であった。
茂吉と佐藤の綱引きを読む
佐藤通雅歌集『茂吉覚書-評論を読む-』
茂吉論を読む楽しみは、なんと言っても書き手がいかなる偏愛をもっているかを知ることにある。茂吉ほどの偏屈に相対し、何かを引き出そうという書き手は、茂吉に負けぬほどの偏屈でなければならない。中野重治、上田三四二、塚本邦雄、岡井隆と、思いつくままに印象に残る茂吉読みを挙げてみても、なかなかの強者ぞろいだ。偏屈どうしの綱引きの面白さこそが茂吉の面白さだといってもいい。この本もそういう意味での綱引きを楽しませてくれる好著だ。
佐藤は茂吉に問いかけながら茂吉全集を読み進める。読み進めるという現在進行形が一冊全体に流れており、結論に向かって構築される論文を読むのではなく、作者と共に考えるという柔らかなスタイルが茂吉を一層面白いものにしている。佐藤の最大の問いは、茂吉にとって〈現実〉とは何であったのか、である。佐藤は語る。
写生を突き進めれば「象徴の域に到達する」とした。これをも写生説に含めたとき、実は写生の概念はほとんど無限に広がったといってよい。(略)北原白秋との根源的差異が溶解する淵まで、来ていた。にもかかわらず茂吉あるいは「アララギ」がこだわったのは、〈現実〉の問題である。実際に見た事象、すなわち肉眼での写生をあくまで前提にしようとしたところに、この流派の特色があった。それを死守することによって、流派を際立たせたといってもよい。
戦後生まれの佐藤にとって茂吉の写生論が死守しようとした〈現実〉は、戦争といかに対面したのかは最大の問いとして浮かび上がる。佐藤は「茂吉の写生説がどのようにして日本精神、ひいては皇国思想と合体したのか」と問いかけ、『万葉集』を「日本精神」の根源とし、信仰の域にまで崇め奉る茂吉の論理のあられもない歪みを読み解いてゆく。そして『柿本人麿 一』に至って「と、ここまで来てふと気づくのは、茂吉の全力的・全身的が、『万葉集』・柿本人麿・写生に説く全力的・全身的と重なり合っていることだ。人麿の真髄を、また写生の要諦を語りながら、実は自分を語っていたというわけだ」とひとまずの結論を置くのである。
茂吉を読み始めた者は、間違いなくミイラ取りよろしくミイラになる。茂吉ファンになってその細部まで嘗め尽くすように愛する読者になってしまうのである。私にとってそのことは長らく疑問であったが、本著を読みながらその理由が分かる気がした。つまり茂吉が死守しようとした写生や〈現実〉は、茂吉自身という天然の〈現実〉なのであり、茂吉読みは、その天然の深みに嵌ってゆくのである。
雀榕の語る物語
万造寺ようこ歌集『そよぐ雀榕』
教職を退いた後の十年間の歌を収めた第二歌集である。
マイクロフィルムがたんと刷れてわが父の愛国短歌薄く現はる
亡き姉の袖を広げて立ちゐるにあらずや夜の染井吉野は
明星派の歌人であった父、萬造寺齊(ひとし)の短歌を論文のために集める作者。「がたんと刷れ」るときに父と作者の距離がちぢまる。
二首目は、漆黒の夜を背景にした桜の妖艶なさまに亡き姉を重ねた。「袖を拡げて立ちゐる」に圧倒的な存在感がある。亡き姉が桜の化身になって現れたかのような個性的な歌である。
夕靄のさくら明かりのなかに来る犬は静かに己が影を嗅ぐ
壁の面にブラインドの影だんだらの写らぬやうに通り抜けたり
夕靄・さくら明かり・犬の影の取り合わせが幻想的であり、映像を見るようだ。俯いて歩く姿を「己が影を嗅ぐ」と表すことにより、犬の存在がくきやかになる。二首目は、他愛無い歌に見えて、「ブラインドの影」など奥が深いのかも知れない。
高々と樹上にありてまつしろな風をたためりはつなつの鷺
戦争は奉安殿のかたちして児童公園の隅にまだゐる
鷺が純白の羽をたたむ一瞬の姿を印象的に捉える。鷺の姿を「まつしろな風」と見立てたところが手柄である。二首目は目に見えぬ戦争を「奉安殿のかたち」という具体として表現したことで個性的になった。奉安殿は本来、御真影・教育勅語謄本などを安置するために学校の敷地内に作られた施設である。この場合、公園に移築されたのだろうか。児童と戦争の対比に緊張感があり、結語の「ゐる」が特に効いている。
この歌集は、身近な亡き人をはじめ、小動物などに寄せる優しさに溢れる。亡き人を描くことにより、生を炙りだして一度限りの生に対する愛着、尊さを前向きに探る一冊である。
自己の短歌観をかけた真剣勝負
大辻隆弘
吉川宏志歌集『対峙と対話-週刊短歌時評06-08-』
本書は、二〇〇六年六月から二〇〇八年六月の二年間に亘り、青磁社のホームページ上に連載された、「週刊短歌時評」の全記録である。当時、短歌出版社のホームページに、週刊時評を連載するというアイデアは画期的だった。それは、インターネットというツールがポジティブな力を発揮した企画として、その後、ネット上で短歌時評が盛んに行われる先鞭を付けたものである。
また、大辻隆弘と吉川宏志という執筆者の組み合わせが、この連載が成功したことの大きな理由だろう。二人の短歌観には、決定的な差異があるわけではない。しかし、この連載を通して二人が馴れ合うことはなく、自分の発言にどこまでも責任を持つという態度が貫かれていた。それゆえに、短歌表現における喫緊の問題点が、読者に見えやすい形で浮揚し、二人の問題意識を自己に引き付けて思考することを可能とした。それはネットというツールが、外部に開かれていることの利点として、彼らが目指した「対峙と対話」が、有機的な力を発揮したものである。
その意味で、本時評が最も盛り上がりを見せたのは、大辻が「かりん」に掲載された小高賢の評論「ふたたび社会詠について」を批判したことから、小高、大辻、吉川の間で「社会詠」論争が勃発したことだろう。その詳細については、本書を読んでもらうしかないが、三者の間で闘わされた論争は、その後、青磁社主催の「いま、社会詠は」というシンポジウムとして結実する。三〇〇人の聴衆を集めたというから、その関心の高さが計り知られよう。また、このシンポジウムには、直接参加はしないまでも、その聴衆の数倍の歌人が、論争の行方を固唾を飲んで見守っていたことが想像される。それほどの影響力を本時評は持ち得たのである。
また、大辻と吉川の間で闘わされた「自然」をめぐる論争も興味深いものであった。吉川の評論集『風景と実感』に基づいて応酬されたものである。この論争は二人の批評態度の差異を確認した上で終息するが、歯に衣着せぬ応酬は、読んでいて興奮させられた。自己の短歌観をかけた真剣勝負の論争が、回を重ねるごとに熱を帯びてゆく様子は、ネットを通して論争を見守る私たちも、同じステージに立たされている気持ちになり、論点に対する思考を深めることができた。
この論争に限らないが、二人の間に交わされた論争は、表現者としての純粋さと誠実さが発露していたのが印象的であった。本時評によって提示された問題は多岐に亘るが、二人の意見を拝聴して満足してしまうのではあまりにももったいない。本時評によって提示された未完の問題を、自己の創作の問題として引き受け、継続的に思考することが求められるだろう。
歯切れ良いリズム
ぬもとみさお歌集『緒』
歌集『緒』は、ぬもとさんの二十年間の作品、三四二首を収めた第一歌集である。
青臭き風の堤のつづみ草ぽぽんたんぽぽ咲けり百本
寂しさが膝に溜まってくるようでアップテンポのリズムで歩く
一読して感じるのが、リズム感の良さである。一首目、言葉を繰り返し和歌の修辞法を思わせる上の句を、一転させる下の句の軽快なオノマトペや、結句の「咲けり」の切れと体言止めが、心地よい。二首目は、まさにアップテンポで歩く歌だが、寂しさをプラスに転化する前向きな心が魅力である。口語調、現代仮名遣いが、この歯切れ良いリズムを支えている。
この辺は静かですねと言われたり いいえ雀もわたしも陽気
角(かど)多きわが性格もダイヤモンドカットといえばけっこういける
歌うようにセールスマンの若き声響く受話器をどうしたものか
リズム感の良さに加えて、ユーモアを感じる歌である。一、二首目には元気で明るい作者が、三首目には拒絶しない温かさが、ユーモアにくるまれて伝わってくる。
魂と聞きて目で追う蛍火のどれも私を知らないらしい
語りつつ歩みきたれる亡き人と別れてわが家の扉を押せり
一首目、二首目とも、今はこの世に居ない人に心を通わせる歌である。一首目は、蛍火が知人の魂でないことをユーモラスに捉え、二首目は、亡き人をこの世に居る人と同じ親しさで感じている。
この歌集の持つ温かさは、沢山の人と繋がる心の温かさではないか。私はそんな風に『緒』というタイトルを感じた。
教師の目
酒井久美子歌集『夏刈』
中学校の教師である酒井さんは、荒れた学校の現実を真っ直ぐに見て詠う。
「殺すぞ」が挨拶がはりの一学期「ぞ」は強意の助詞ねとかはし
まう会へないサッカー留学するからとまた嘘言ひて生徒が帰りゆく
家族写真持たぬ一人が取り出して見せたり良い歯の表彰状
退職は「まことに残念」校長の一言以つて一件終はる
学級通信百号を超す一年を終へて講師の君が去りゆく
一首目からは、憎悪に満ちた生徒の言葉を、かわすしかない教師の痛みが、二首目、三首目からは、生徒の抱える悲しみを見守るしかない辛さが伝わってくる。詠まれた生徒の姿が浮かぶのは、それだけ深く生徒を見守って来たからに他ならない。感情を抑えた描写は、酒井さんの視線の鋭さをそのまま歌に刻印する。その鋭い眼差しは、四首目、五首目にみられるように、学校教育の矛盾をも抉り出す。
叱らるることに慣れゐて小僧寿しの商標(マーク)のやうな礼して帰る
犯人はカラスと判る学校のレモン石鹸盗難事件
このような、ユーモアを感じる歌もあり、現在の学校の現場が厚みを持って、実にリアルに伝わって来る。
姉さんと声素直なり弟ら吾より早く母を失くして
芋穴を荒らせる貂(てん)の襟巻きを巻きてをりたり長女の私
草つかむと同時に鎌をかけて引く草刈り母に習ひたる夏
酒井さんの故郷(兵庫県北部の草深い山村)を詠んだ歌から引いた。三首目の、夏の草刈りの光景が、タイトルとなっている。原風景であるという故郷の自然や、ともに過ごした家族の温かさが伝わってくる作品である。
記憶の豊かさ
仙田篤子歌集『万の螢火』
すでに亡き人も会へずに経し人も関はり深し古き日記に
仙田さんは、人との関わりを大切に生きている人である。歌集を読むと、今は亡き叔父や従姉や姑、離れ住む父母や息子達や孫などとの一齣一齣が、鮮やかに蘇る。
今はむかし母を読み手の歌留多とり父も幼き弟もゐて
兄と弟ならび放ちし亀の子が流れに乗るをこの川に見き
臥す姑のねぎらひの言聞きしより向かふ方なきわが裡の修羅
五十年前の小豆の音がする母縫ひくれし絞りの手玉
一首目、家族で百人一首を楽しむ情景や、家庭の雰囲気が年月を越えて伝わってくる。二首目は、子育て真っ最中の頃だろう。「亀の子が流れに乗る」という思い出の中の時間を捉えている。三首目は、姑との葛藤を描き出すが、「ねぎらひの言」には修羅を乗り越える温もりを感じる。四首目、五十年という時間の厚みを思う。
帰還の父に甘ゆる術も知らざりし五つに満たぬ女子(をみなご)われは
ニューギニアの夜の行軍に見しといふ森の一木の万の螢火
実をつなぎ数珠につくりて想ひしや生(あ)れて面見ぬ娘わがこと
父のゐる部隊なりとはわが知らで幼く歌ひしラバウルの歌
仙田さんの父への想いは、歌集を貫くように流れているが、この四首にあるように、父がニューギニアに軍医として出征中に生まれ、復員して初めて会ったことが影響しているのだろう。兵としての父の記憶にも想いを馳せるように詠う。
車椅子の母を挟んで小春日を父は柚子取りわれ落ち葉はく
両親の老いを見つめる日々にあって、懐かしく心温まる歌である。九十歳を越えた父の勧めでまとめたという歌集には、仙田さんのさまざまな記憶が、豊かに息づいている。
なんでもない日の歌を
隈元榮子歌集『なんでもない日』
赤ペンで次々埋まる日程表の会議の横に南座がある
氷雨降る暗くて寒いこの日にこそ助六の傘さしかけてくれ
反省と今後の対策日々聞いてあやまられては汚れゆくかな
全日空二一九便雲の上二首ずつ寄せて歌会を開く
年々に早起きとなる夫がいて吾は一段と夜更かしをする
おしゃぶりのよだれにむせて赤児泣くなんでもない日がしあわせになる
定年までの三十八年間を京都大学大型計算機センターに勤務していたという著者には、歌舞伎や短歌を愉しむ濃密な時間もあった。ときには二首目や三首目の微かな呟きが陰翳を伴いつつも、前向きに闊達に、穏やかに流れた歳月が偲ばれる。
たっぷりと水を含んだ淡雪は木瓜の蕾の紅を透かせり
ぎぼうしのうつむく花の瑠璃色をつたいて落ちる雨のしたたり
対象を凝視して詠まれた色彩豊かな世界は簡素で美しい。
おかあちゃんと幼子になり呼んでみる七回忌終えて同じ病に
点滴の食塩水さえ浸み込まぬ絶望しているからだのあちこち
髪ぬけて爪はがれ落つ無惨をも受け入れ若葉の季節となりぬ
造影剤に染め上げられて白く浮くそれをも含め隈元榮子
肺癌で喪った母と同じ病を得た著者の懊悩辛苦は慮る術もない。「わたし自身が癌の化学療法を受けている身であれば隈元榮子さんの気持ちは痛いほどわかる。わかる分、絶句するしかない。隈元榮子さんが短歌という表現手段を持っておられることを、わたしはこころから良かったと思う」との亡き河野裕子氏の、切々たる温かな序が、しみじみと反芻されるばかりである。
「歌は私を支えてくれています」と後記に記す歌人に、なんでもない日の歌が多く生まれてゆくことを心から祈りたい。
焚き火してなんでもない日の庭あそび箒の筋目しろく浮き立つ
梅の木のある家
藤村京子歌集『つくつくぼうし』
五年間加療を要すと書かれおり九十二歳の術後の母に
病室の夫は誰と交わせしか「初雪ですね」と筆談のメモ
幾たびも見しテレビ映画らし病み長き子が解説しくるる
咳の間にベッドの子が言うツクツクボウシ鳴いたら夏は終わるんだよね
逝きし子の名で呼ばれおり大病院にその入院費支払いに来て
京都の太秦で濃やかに暮らす著者の過酷な現実は傷ましい。
若い命を夏までと限られたご子息を癌に奪われた著者は、更に夫を、次いで母を喪う。大切な家族の折々の断片が丁寧に掬われた歌はどれも抑制が利いており、読者の心を撃つ。
息詰まる事故もほのかな告白も伝え来し古き電話機を捨つ
駅からの坂道長し我が家は低きにあると思う冬の夜
一日に幾度も歌う早春賦庭の椿に風花の舞う
きのう雪きょうも雪なる夕暮れの庭に白梅ぱちんと咲けり
庭の梅「もう咲きます」と囁けりどうぞどうぞの如月うらら
痩せ痩せて樹皮のみにて立つ老梅が今年も呉れぬ梅酒三瓶
厨房の食器ぶつかる音聞こゆ地下病廊に検査を待つ間
本集には十七年間の作品が収録されている。
一首目の歌のもつ普遍性は下二句の端的な表現で揺るがないものとなっている。二~三首目、坂の下あたりにある作者の家の冬の庭には椿が咲いている。椿が舞う風花がいい。
四首目の、雪の日にぱちんと咲いた一輪の白梅はなんとも慕わしい。省略の利いた五首目の歌は機知に富み、春を迎える歓びに溢れている。六首目の老梅は夏には賜の実を付けて、作者や娘さんを楽しませてくれる。このように過ぎていった幾春秋に期せずして深く関わった、最後の地下病廊の歌には確かな粘着力が籠もり、藤村京子さんが歩まれた歌歴の豊かな蓄積が窺える。中村秀子氏の緻密にして懇切な序が暖かい。
歌で読む 『更級日記』
江坂美知子歌集『更級日記の歌-受け止めるしかない-』
『更級日記』は菅原孝標女によって書かれた、平安時代の代表的な女流の日記文学の一つである。これは、孝標女が五十三歳の頃、まとめて書かれた回想録だろうと言われていて、日記といっても、どこか物語めいているのが興味深い。日記は孝標女が十三歳の少女の頃、東国・上総の国に赴任していた父・菅原孝標の任期終了に伴って京へ帰国するところからはじめられて、継母との別れや乳母の死、姉の死や恋、母の出家、祐子内親王家への出仕、橘俊通との結婚、出産、夫の死、その後の悲哀までが書かれている。淡々とした文体の中に挟まれている歌が、書かれている世界を活き活きとさせる働きをしていることは『更級日記』を読めばすぐに了解されることであろう。
『更級日記の歌』は『更級日記』に書かれている歌のすべてを順に引用し、現代語訳を添えて、歌の背景を説明しながら、様々な環境の中で静かに人生を引き受けて生きた孝標女の折々の心情に触れている。
例えば『更級日記』中の、孝標女の姉の死後に急激に歌数が増えている部分について、著者は、『「しづくににごる人」との淡い恋の経験と痛みは、歌数をおのずから多く必要とし、ひとたび、人恋しさを知った作者の歌の行方を見る思いがいたしました。』(本書「おもかげの人」)と、技巧の中に主情を抑えた孝標女の歌の、深層にたたまれた心情へ分け入った分析をする。
思ひ知る人に見せばや山里の秋の夜ふかき有明の月 孝標女
そこから歌は読み解かれ、〈「思い知る人」に今の心を伝えたい、濃密な心のつながりを持ちたいと願いながらも実現しない、初々しいかなしみがこめられているようです。〉と、孝標女の深い心情に届く説明がされる。『万葉集』、『古今和歌集』、などとの照応も含め、歌を通して孝標女の生き方がわかりやすく語られている。さしずめ、歌で読む更級日記と言ってもよい。
葦辺に送り火を焚く
福政満寿美歌集『菱の実』
夏野菜十一種類の苗を植え湖山ヶ池に鴨を見に行く
さ緑の菱が覆える池の面秋には菱の実贈る約束
拳ほどの間隔をあけ並べおく朝ごと出でゆく六足の靴
生れし日も生みたることも遥かにて送り火を焚く風の葦辺に
鳥取県の美しい湖山池のほとりで、春秋の景に溶け込み乍ら、地道に誠実に暮らす著者の日常が、シンプルで明快な文体に描写されている。大寺龍雄氏の懇切な序にもあるが、ここでも結句の配慮はどれも行き届き、鮮やかである。
四首目の境涯詠は、慕わしい死者を尊ぶ動作の向こうに、作者と同じように誠実に生きて過ぎ去っただろう親族、更に、こうして引き継がれてゆくことだろう、作者が限りなく慈しむ若い家族が重層的に見えてくる。
「風の葦辺に」は湖山池のほとりの旧家の存在を象徴してもいよう。そしてとりも直さず、丁寧に送り火を焚いている福政満寿美さんの現実の姿が今ここに静かに在る。
見おぼえのあるシルエットと気づくとききみは帽あげ吾は手をふる
つと逸れて猫撫でにゆく裕子さん山寺の猫繋がれており
枯れ原の放置自転車今朝はなしよろこび行きけん自転車も人も
二〇〇七年娘を喪いし年が逝くぼたん雪しずかに降りつもりつつ
一首目には心地よい迫力が漲り味わい深い。二首目は作者と「塔」を結びつけた、今は亡き河野裕子氏その人であろう。三首目の簡素な空白の、憧憬にも似た広がりは、読む醍醐味を読者にもたらしてくれる。四首目の挽歌からは微かなカタルシスも匂う。
嫁いだ娘さんを喪った悲傷を作歌という営為が支えてくれたと述懐する著者に、短歌があって本当によかったと思う。
メルヘンの恐怖にさわる
大橋智恵子歌集『日下橋』
大橋智恵子の第三歌集『日下橋』の歌を読むと、ものの見方や考え方、対する意識の方向が日常的な感覚とは逆に働いていることに気付かされる。その逆の意識は表現の発見につながる。『日下橋』の歌にみられる自由な発想は、童話やメルヘンの世界、子どもの空想や創造の世界とつながっているように微笑ましい。しかし、注意深く読めば、この何気ない微笑ましい表現の中に、さりげなくメルヘンの持つ恐怖にまで言葉を届かせていることが分かる。そこがこの歌集の歌の重要な表現である。
食パンのなかくりぬいて六十ワットの電球をつけすわつてゐたい
やはらかき棘が毛虫に生える頃娘ははじめて赤子産みます
仏壇に元気がないとチューリップの真赤を二本父は足したり
斑猫のとぶ坂に立つ父の影チェロのケースに納まりさうな
いつの間にか加はりてをりぬらりひよんが夫とわたしの夕餉の卓に
あなたはまだをられましたか首細き媼の問へり日下橋(くさかばし)の上(へ)
ふわふわの食パンをくりぬいて中に座っていたいというメルヘンチックな思いの中に、現実的な六十ワットの電球が組み込まれている。娘の出産という喜ばしい事柄に、毛虫の棘の生える時期を重ねることで、ひとつの非情を醸す。チューリップやチェロのかわいらしい道具立ての中に、仏壇の赤いチューリップや父の影をしまうケースという異常がさりげなく埋め込まれている。ぬらりひょんや日下橋の上の媼も妖怪変化が日常の傍らに張り付いているようだ。この微笑ましさの裏の恐怖への言及こそ大人のメルヘンであろう。他にも、優れたオノマトペアの歌があることも付け加えておきたい。
甕の中で味噌が発酵してをりぬマチュピチュマチュピチュ小さき声で
若々しい感受
大塚洋子歌集『衝羽根』
二〇〇四年から二〇〇八年七月頃までの約四年間の三七七首を収めた第四歌集。作者は、海と山に挟まれた茨城県高萩市にお住まいで、歌もおのずと海や山、動物や植物が素材をなし、いずれも生き生きとした躍動感がある。
海までの坂を自転車に下りゆく広ごる鯖雲けちらしながら
地平線のおぼおぼとして春の空海へ海へと吸はるるごとし
明るみて細き雨降るたんぼ道遠くの里山けぶらひにつつ
降り立てば阿武隈の尾根のをちこちに霧立ちのぼる日の昏るるまへ
一・二首目の下句の感受の若々しさ。三・四首目の把握の確かさと、表現にブレがない。集中、小動物を詠んだ歌が多いが、とりわけ彩りを添えているのは、次のような猫の歌。
梔子を咲かせましたと黒猫がちよこんと木下に細き声上ぐ
四ツ角を曲ればにはかに夕暮れて疲れきつたと三毛猫が言ふ
猫が言葉を発するのも、作者が猫好きの所以であろう。黒猫も三毛猫も、風景に収まっており、風景のなかにひときわ存在感を示している。
茗荷の花たつたひとつきり 話ならあとでと娘に電話切らるる
こんな日にきつと惚けてゆくのだらう朝からからんと部屋が明るい
日常のなかの一齣を掬いあげている二首であるが、作者の胸底に吹く風を感じる。その風は〈生〉のさびしさをともない影を落とす。「朝からからんと部屋が明るい」ゆえの哀感。詩の核とは、このような何でもない日常に在るともいえる。
歌集名の『衝羽根(つくばね)』は、筑波山に僅かに残る植物で、生前に夫が「いいね」と言ったので、集題にしたとうたわれている。
澄明な歌
田附昭二歌集『風の尾』
一九九三年「塔」に入会、それ以後の十五年間の作品を収めた第一歌集。長い間の妻君の看取りの歌が哀切である。
目覚時計のやうに吾を呼ぶ妻の声今夜七度目に起き出してゆく
寝ね際に淋しがりて吾の手を握る妻に眠りは死のごとくあるか
雛のごと口開く妻よかく老いてたはむれのごとく飯運ぶかな
夏の日の長き夕照りかげりきて眠れる妻のほのかに白し
会社経営に人生の大半を費やしたと「あとがき」に書く作者は、その時期、家庭は妻に任せきりであったようだ。その妻に高齢になって病まれ、長い介護の生活を送ることになる。
一首目の「今夜七度目」に看取りの大変さを思うが、二首目の「妻に眠りは死のごとくあるか」と、妻の心情を推し量っている。三首目、四首目は、現実のことでありながら、この世の光景と思えぬような、はかなさがただよう。こののち妻君は、天に召される。
紅葉を底に沈むる蹲踞に白つばき落ちて浮ぶ三つ四つ
つくばひは鞍馬石にて秋の水ひそかなりけり昼すぐる頃
萩の花を搖らす風の尾つくばひの澄みたる水にさやりて過ぎぬ
蹲踞をうたった三首。いずれも静謐である。一首目の紅葉の上に重なる「白つばき」の澄明感。二首目は蹲踞に溜まる水の清らさが伝わってくる。三首目は歌集題になった「風の尾」を捉えている。蹲踞をかすかに触れてゆく風。いずれの歌も、静かな時の流れを感じさせる。それは作者の心境のようにも思える。対象そのものに作者の心が静かに寄り添っている。猥雑な世の中の動きを遮蔽したところに作者の〈生〉がある。
〈生〉の讃歌
安藤三從歌集『ロスタイム』
「巳の年の巳の日、巳の刻に倉敷で生まれ…」とあとがきに書く二百九十六首を収めた第一歌集。米口實氏の解説が付く。
ひさかたの天に召されしあげひばりまなく光の駅に着くべし
駿河は今ひかりの五月 ひさかたの天に伸びゆく茶畑のうね
「ひさかたの」枕言葉が入った二首。あげひばりを「天に召されし」とうたい、「光の駅に着くべし」と確実な推量の意をあらわしている。二首目の「天に伸びゆく茶畑のうね」は強引といえば強引だが、五月のきらめく季節を表現して美しい。
ありつたけのふともも出して子と泳ぎ子と波に乗り子を抱きしめた
エアコンの風あたたかき秋の夜はシルクの袖を素肌にとほす
「ふともも」や「素肌」が健やかな〈生〉を讃歌して、作者の個性ともいえる身体感覚の歌である。一首目のはちきれるような若さ、二首目は、無意識に醸されるエロチシズムだろう。
吉備団子ひとつやるからついてこい談合坂にて仔細を話す
しきみちに二人のかげをうつしつつ歩みきたれり それだけなのに
夫なしに生きてゆけるや躓けばすがる手すりは廊下にあるが
この命あづかりましたといふやうな一体感はいつから夫に
一首目の「ついてこい」と言ったのは誰か、結句の「仔細を話」したのは相手か作者か、背後事情はわからない。わからないだけに、想像するたのしみの残された歌である。三首目は、いいさしの結句に意味を持たせている。四首目の夫に対する混沌とした思い。不思議なひとである。
生きものとの対話
歌川功歌集『若冲の鶏』
歌川の第一歌集には、生き物の歌が多い。目次のタイトルにも四分の一ほどあり、そのうちの半分ほどが虫の歌である。
目の前(さき)にホバリングする鬼やんまわれの祖(おや)かも知れぬ目と会う
本の上に虫這いくるをルーペもて覗けば顔に見覚えはなし
見えかくれ波濤をかすめ飛びながらいつかは魚となる鴎鳥(かもめどり)
巻頭歌は〈やんま〉の歌である。作者は特に蜻蛉に心を寄せているようだ。「祖(おや)かも知れぬ」、「顔に見覚えはなし」、「いつかは魚となる」などから輪廻転生の思いが根底にあるようだ。三首とも小動物に対する優しい眼差しが息づいている。三首目は実景を鋭い観察眼で捉えたのち、下の句の飛躍に発展するところがおもしろい。エッシャーのだまし絵の版画に、波に漂うモノが見方によって魚に見えたり、鳥に見えたりするものがある。その版画を思わせる幻想的な歌である。
交差路を押し寄せてくる人の波立つ杭となりわれは呑まるる
陽に染まる巻層雲(けんそううん)に気づかざる人らと影がわたる交差路
右の二首は、歌集のなかで数少ない人事の歌である。誰もが体験する光景でありながら、結句の「われは呑まるる」に読み手は、衝撃を受ける。後の歌の巻層雲は、他のものの比喩として読んでも面白い。また、一首目の「われ」と、二首目の「影」をわざわざ付け加えたところに作者の志向があるのだろう。
雨の日のしめり帯びゆく思惟(しゆい)にも傘さしかけてひたすら睡る
心も湿りがちな雨の日、深いもの思いをふと中断して休憩する。わざわざ仏教語の「思惟(しゆい)」にしたことと「傘さしかけて」と軽快にしたことで、湿り気が吹き飛ぶような感じになった。ユーモラスな歌で成功するのは少ないので貴重な一首である。